投稿

ラベル(文化)が付いた投稿を表示しています

平成30年3月17日 外国人観光客に日本を楽しんでもらう方法

イメージ
 外国人観光客が増えている。 2020 年の東京オリンピックの際は、もっと多くなるであろう。それに対応して、彼らに日本滞在を楽しんでもらう工夫がさまざまに考案されている。その一環として、彼らの情報収集を促進する簡単な方法を提案してみたい。  かつて中国を旅行したとき、駅などで見かけた一般人に英語で話しかけてもまったく通じず辛い思いをしたことがある。外国人が日本でそれほど辛い思いはしないと推察するが、それでも外国人の質問に対して、理解できるように答えられる日本人は少数であろう。問題は、外国語を使って話せる日本人を、外国人がどのように識別できるかである。  解決法は簡単だ。外国語で説明する意思のある個人の服装の一部に、それを目立つように表示すればよい。例えば「○○語で質問してください」と、その言語で書いた腕章を付ければよい。Tシャツの背にそう書いてもよい。  外国人と英語その他の言語で話したいと思っている日本人は、少なからずいるであろう。英語などを熱心に学んでいる大学生や、定年退職した海外滞在経験者などである。そうした日本人にとっても、外国語を話すことは言語学習や言語能力維持の助けになるであろう。  上記のような腕章やTシャツは、衣料品店や百円ショップなどで販売可能だ。観光政策として、政府はこの方法の普及をはかったり、外国人観光客に周知したりできる。外国語の種類や能力レベルによって、腕章などの色分けやデザインによる区分をすることも考えられよう。ただし、以上はあくまで無報酬のボランティア活動である。   ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 連絡先  kazuhiro.arai888@gmail.com 荒井一博のホームページ  http://araikazuhiro.world.coocan.jp/ 荒井一博のブログ 海外向け  https://araikazuhiroen.blogspot.jp/ 荒井一博のツイッター 国内向け  https://twitter.com/araikazuhiro88 海外向け  https://twitter.com/araikazuhiroe88

平成30年3月11日 日本は衰退している(4)日本人の倫理観①

イメージ
 日本人は集団主義的か否かという議論が、心理学の分野でなされることがある。日本人は集団主義的であると多くの日本人が信じているので、そうでないと主張すれば学界の注目を浴びて、そうした主張の論文は権威ある雑誌に掲載される確率が高まろう。そして、実際にそのように主張し注目を浴びている社会心理学者が存在する。  しかし、日本人が集団主義的である明確な証拠を示したい。日本人は組織内で悪事を働くときに、ほぼ確実に集団主義的になる。日本人が組織内において一人だけで悪事を働くのはきわめて稀で、銀行員が銀行の金を使い込んだ話を稀に耳にする程度だ(最近はほとんど聞かない)。  ここ数年、企業の不祥事がいくつか発生している。神戸製鋼所の品質データ改竄、三菱自動車の燃費データ不正、東洋ゴム工業の免震ゴム偽装などだ。 1990 年代半ばにも企業の不祥事が頻発した。これらのほとんどすべてが「組織ぐるみ」である。つまり、組織内の何人かが申し合わせて不正を決断し、それを組織が実行しているのだ。彼らは組織内で有力な「仲間(集団)」で、通常その中には管理者も入っている。社会科学でインフォーマル・グループと呼ばれるものの例にほかならない。  彼らは業績を挙げたかのように見せるために、仲間で申し合わせて不正を行う。仲間で行えば、良心の呵責をほとんど感じなくて済む。組織内には仲間でない組織成員もいるが、不正を公にすると集団で嫌がらせを受けると予想するため、不正を問題にしない。組織内で有力な集団に目を付けられると毎日が地獄になるので、だれもその不正を指摘したり暴こうとしたりしないのだ。  日本の組織でこのような不祥事が発生するメカニズムを、私は『終身雇用制と日本文化』で詳しく論じたことがある。不祥事の発生した某組織の成員にその後偶然会う機会があったとき、同書に書かれている通りのことが起きたといわれた。また、日本の組織内で不祥事が発生するときは、ほぼ必ず派閥などのインフォーマル・グループがかかわっていることを『文化の経済学』の第三章で詳しく論じた。  日本は伝統的に信頼を重視する社会であり、世界的にみると今日でも信頼が重視されている。日本の犯罪率が世界最低水準であることがその強力な証拠だ。 しかし新自由主義の浸透とともに、短期的な金銭的利益を重視するようになった結果、インフォーマル・...

平成30年3月4日 禁煙政策はどうあるべきか(3)

イメージ
 禁煙政策に関する論説の第 1 回では、喫煙が外部不経済(迷惑)を生み出すことを述べた。第2回では、喫煙者が嗜癖に陥るためタバコを消費しない自由が侵害されると論じた。両者の一つだけでも喫煙規制の根拠に十分になりうる。飲食店や路上を含めて、喫煙は禁止されるべきである。好ましくないことではあるが、政府がタバコの販売を合法としているならば、喫煙したい個人は他者に迷惑のかからない範囲で喫煙すべきである。以下では、今までに述べたことに対する補足をしておきたい。  喫煙と疾病との関係はまだ十分に解明されていないものもあるが、喫煙は多くの疾病の原因になることはほぼ明らかであろう。なによりも、多くの喫煙者自身が自分の体調の不具合をよく理解しているはずである。多量の痰が出たり風邪が治りにくくなったりする。こうした健康問題を引き起こす消費財は、製造や販売を禁止するのが政府の役割である。  武田邦彦氏は喫煙が癌の予防に役立つようなことをユーチューブで説いているが、喫煙には嗜癖の性質があるため、ほとんどの喫煙者は健康を害するほど喫煙してしまう。武田氏は嗜癖をどのように考えているのか、そして喫煙が健康によいのであれば何故自身は喫煙しないのかを説明していただけたら有り難い。万一ある程度の煙を吸い込むことが健康によいのであれば、タバコ以外の植物を燃やした煙を、嗜癖を起こさない程度吸い込むのでは不十分なのかも、説明していただけると有り難い。  禁煙運動はナチのしたことだ、といって禁煙運動に反対する人がいる。これは全く非論理的な主張である。ナチのしたことをすべきでないと主張する人は、呼吸も食事もしないのであろうか。ナチの人たちは、たっぷりと呼吸も食事もしていたのである。  今回の禁煙論議では、飲食店が禁煙になると来客が減少すると危惧されているようだ。しかし、すべての飲食店が禁煙になれば、来客減少の効果はほとんどないのではなかろうか。実際のところ、外国における禁煙条例の実施はレストランの売上に影響しなかったという報告がなされている。また喫煙者の支出減は非喫煙者の支出増によって埋め合わされてもいた。詳しくは下記の拙著を参照されたい。 荒井一博『喫煙と禁煙の健康経済学-タバコが明かす人間の本性』。私のホームページにて無料閲覧できます。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 ...

平成30年2月25日 禁煙政策はどうあるべきか(2)

イメージ
 喫煙の自由が個人の権利になりえない重要な要因がもう一つある。それは嗜癖という恐ろしい現象だ。一年も喫煙を続けていると、タバコの消費をやめようと思ってもやめられなくなる。体の不調などのさまざまな理由で禁煙したいという意思はあるのに、体が禁断症状を生み出し喫煙を要求するのだ。これが嗜癖の重要な特徴にほかならない。多くの喫煙者が禁煙したいと思っているにもかかわらず、それに成功しない理由は、嗜癖という現象のためである。  論理的に考えてみると、嗜癖は個人の自由を侵害するといえよう。タバコの消費をしたくないと思う個人が、その意思に反してタバコの消費を強要される状態に置かれているからだ。タバコは吸いたくないと思っても、体の中に生まれた嗜癖という「強制力」がその希望の実現を阻止するのである。これは自由が制約されている状態にほかならない。工場の吐き出す煤煙を逃れて清浄な空気を吸いたいと思っても、それができない状態と同じである。タバコを消費し続けると、タバコを消費しない自由が侵害されることになってしまうのだ。  多くの麻薬が同様な性質を持つ。そのため、強い嗜癖性を有する物質は法的に規制することが正当なのである。つまり、消費を禁止すべきなのだ。消費を個人の自由に任せたら、大多数の個人が嗜癖に陥り、立ち直ることができなくなり、社会は崩壊してしまう。自由主義者はあまり認めたくないようであるが、人間は強い嗜癖に打ち勝てるほど合理的あるいは強靭ではないのだ。  今日ではほとんどの国で麻薬の取引や消費が禁止されている。それと同様にタバコの消費も禁止されるのが好ましい。私もかつては喫煙していたが、禁煙したいと長年考えて失敗を繰り返した苦い経験がある。消費をやめたいと思ってもやめるのがきわめて困難な消費財は元々供給しないのが社会的に好ましい。個人の判断で消費を決めさせるという考えはきわめて論拠薄弱なのである。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 連絡先  kazuhiro.arai888@gmail.com 荒井一博のホームページ  http://araikazuhiro.world.coocan.jp/ 荒井一博のブログ 国内向け  https://araikazuhiro.blogspot.jp/ 海外向け  https://araikazuhir...

平成30年2月18日 禁煙政策はどうあるべきか(1)

イメージ
 東京五輪を機に公共の場での全面禁煙を実現しようという動きが、現段階では腰砕けになりそうだ。喫煙や禁煙をどう考えたらよいかについて、要点を記してみたい。基本的に重要なことは、喫煙が個人の自由として主張できる完全に正当な権利になりえないことである。  タバコの煙が漂う空間では、ほとんどの非喫煙者が強い不快感を抱く。一刻でも早くそこから逃れたいと思うだろう。そのような場で、ディナーを楽しみたいとか、午後のひとときを友人とティーでくつろぎたいと思う非喫煙者はほぼゼロである。実際のところ、喫煙者さえ他人の出したタバコの煙に対しては不快感を抱く。 経済学的に表現すれば、喫煙することによってタバコの煙を周囲の人に吸わせる喫煙者は、外部不経済を生み出しているといえる。換言すれば、喫煙者は空間を共有する人たちに不当な害を与えているのだ。これは全く正当化できない。周囲の人たちに汚水をまき散らすのを正当化できないのと同様である。  自動車が排気ガスを出すのは許容されているのに、なぜ喫煙は許容されないのか、と主張する喫煙者がいるかもしれない。厳密にいうと自動車の排気ガスも問題ではあるが、レストラン内で抱く排気ガスに対する不快感はほとんど無視できるのに、タバコの煙に対する不快感は耐え難いのである。タバコの煙は許容限度を超えているともいえよう。  以上の理由だけでも、公共の場における喫煙は規制されるべきである。さらに受動喫煙は多種類の疾病を引き起こす可能性も無視できない。特に、妊婦や特殊な体質の人たちには好ましくない影響が強く現れるであろう。  飲食店に入ろうとしてドアを開けたときにタバコの煙の臭いがすると、日本は先進国でないのかと私は感じる。日本は素晴らしい国だと外国人に感じてもらうためにも、飲食店を含む公共の場では全面禁煙にすべきであろう。禁煙に反対の論者もいるので、その論拠の問題点に後ほど触れてみたい。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 連絡先  kazuhiro.arai888@gmail.com 荒井一博のホームページ  http://araikazuhiro.world.coocan.jp/ 荒井一博のブログ 海外向け  https://araikazuhiroen.blogspot.jp/ 荒井一博のツイッター 国内向...

平成30年2月4日 誰が校則を決めるべきか

イメージ
 2月1日の夕刻に憲法と校則に関する NHK のテレビ放送があった。簡単にいうと、校則を決めるのは誰であるべきかという問題に関する放送である。その放送を視聴して、校則は生徒が話し合って決めるべきだ、と考えるようになった人が多かったのではなかろうか。そう考えるよう放送が誘導しているように、私には感じられた。以下では、生徒が校則を決めるのは誤りであることを論じたい。  校則やルールを含む制度一般は、人間の持つ価値を陽表化した(目に見える形にした)ものである。そのため、そこには文化が反映される。優れた制度は文化の優れた面を反映したもので、幸福な社会を生み出す。経済学的に表現すれば効率的な社会を生み出すといえる。  不完全な人間を多少とも完全に近づけるための教育機関が学校であるから、不完全とみなされている人間が優れた文化を内面化していると考えることは、論理的な矛盾だ。そのため、不完全とみなされている生徒が校則を決めることは誤りなのである。校則を最終的に決めるのは学校でなければならない。教師は生徒よりも人間としての完成度が高いはずで、優れた文化が何であるかも知っているはずである。そして、学校はその生徒の教育に対して全面的な責任を負っているはずだ。そうしたことが教師や学校の条件であるからである。  もちろん、生徒が校則に関して希望を表明することは問題ない。校則のなかには、変えたほうがよいものもあろうし、少し変えるだけで実質的な負の効果を生まずに生徒の幸福を大きく高めるものもあろう。学校は生徒の意見を考慮して校則を決めることができる。  しかし、学校が生徒に譲歩すべきでない点も少なくない。学校はどのような髪型も自由だとすることができようか。成人である会社員でも髪型の自由度は常識の範囲内とされるであろう。服装も同様だ。学校は、次の時代を背負う日本人がどのような文化を内面化しなければならないかを考慮して、校則を決めなければならない。そして校則に関して生徒や保護者と意見を異にするときは、論理明快に学校の考えを説明すべきである。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 荒井一博のホームページ  http://araikazuhiro.world.coocan.jp/ 荒井一博のブログ 国内向け  https://araikazuhiro.blogspot.j...

平成30年1月21日 日本の山は巨大資源だ

イメージ
 航空機に乗って上空から日本の国土を眺めると、そのほとんどが山であることを実感する。日本の国土の約三分の二は山地だ。しかもそのほとんどの部分は、訪れる人が極めて稀である。多数が訪れる山の観光地はほんの一部であり、地元の人々がときどき足を踏み入れる山も、山地全体から見たらほんのわずかな部分にすぎない。  日本の排他的経済水域の面積は世界第六位とかで、最近は日本人の目が海洋にも向かい始めているが、国土の三分の二に達する面積を有しながら、今まで軽視されてきた山地にも目を向けるべきである。すなわち、その有効活用を考えるべきだ。  日本の山には清流や滝があり、青々と茂った草木があり、小鳥のさえずりがある。少なからざる日本人がリュックを背負って山に入るのは、そうした自然を求めているからであろう。山歩きはそれらの人たちに、生命に満ち溢れた非日常的な景色、新鮮な森林の空気、生きていることの喜び、そして適度な運動と疲労を与えてくれる。山道が歩きやすく整備されていれば、毎週でも山歩きをしたいという人たちは多いであろう。  しかし、日本では一部を除いて山の遊歩道が十分に整備されていない。地元の人しか知らない山道が多すぎる。それらを拡張し歩きやすく整えるとともに、標識や地図を充実させ、携帯電話や GPS を山中でも使えるようにすべきだ。そうすれば多数の人たちが山を訪れるようになり、日本の山地全体が大観光地に変身する。各種の清潔な宿泊施設も完備されるであろう。  私の経験からは、ニュージーランドがある程度良好な山の遊歩道を整備していると感じた。オークランド近郊の低い山にも、また標高の高いクック山の氷河周辺にも、いくつかの遊歩道があり、普通の人たちが山歩きを楽しむことができる。 日本には広大な山地があり、植物的・地形的な多様性も大きいので、遊歩道を全国の山地一帯に張り巡らせば、質的に世界トップレベルの山歩きを楽しむことができるようになろう。もちろん、コンクリートの使用などは少なくして、自然破壊を最小限にすべきである。遊歩道の建設は高速道路の建設などと違ってローテクかつ割安であり、地元の小規模建設業者でも十分に対応できるはずだ。一日千円以下の遊歩道使用料を徴収すれば、建設費用の回収が可能かも知れない。 日本の山の魅力は世界屈指ではないかと個人的に感じている。雄大な景色を...

平成30年1月14日 日本は衰退している(1)一般労働者

イメージ
購入した商品の使い方や契約書の説明などが分からないために、製造元や販売会社に電話することがある。そうしたときに、まともな答えの得られない場合のほうが多いように感じるのは、私だけではあるまい。これには複合した要因が関係しているであろう。 第一に、電話で対応する社員は自分の仕事に関してあまり勉強していない。少しでも込み入ったことを質問すると、彼女ら(彼ら)は答えられなくなる。契約書など読んでいないようだ。答えられなくなり、「ちょっとお待ちください」といって、質問者の了解も得ずに電話を保留にして、 5 分以上も待たせることも稀ではない。他の社員か上司に聞きに行っているのであろう。質問者の質問に答えられず、沈黙してしまう社員も少なくない。ずっと沈黙していて、何とも思わないのであろうか。 第二に、そうした社員は勉強していないために知識不足であるだけでなく、顧客のために良質なサービスを提供しようとする意思もないようである。与えられた仕事を適当にして一日を過ごせればよいと考えているようだ。顧客は神様だと考える企業がかつては多かったが、今では消滅したかもしれない。 第三に、明らかに会社は社員教育を熱心に行っていないようである。社員の知識が十分なことを確認(テスト)もせずに、電話の対応につかせているようだ。かつての日本企業は社員教育に熱心であったが、今では事態が大きく変わってしまった。社員がまずい対応をしても会社は恥ずかしくないようだ。 第四に、電話で対応している社員の多くは非正規雇用者ではないか、と私は推察する。非正規雇用なので会社は十分な社員教育を行っていないのではないか。また社員も、いつ雇用が打ち切られるかわからないので、勉強を一生懸命しないと推察される。 歴史的に日本は一般庶民が優秀な社会であった。江戸時代でも識字率が高く、一般庶民は勉強熱心であった。しかし今日の一般庶民は不勉強であるばかりか、他者に対する配慮も大きく失っているようだ。一般庶民を雇用している企業も熱心に教育を行わないだけでなく、新自由主義に影響されて、彼らを使い捨てインプットとして扱っているように私は感じる。一般労働者の仕事能力低下は、日本の衰退を象徴する事実にほかならない。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 荒井一博のホームページ  http://araikazuhiro...

平成29年12月24日 大相撲に採点制を導入したらどうか

イメージ
 横綱日馬富士の引退につながった事件に関連して、大相撲に対する批判が高まっている。大相撲が優れた日本文化の一面を伝える役割を果たすことを願う者として、簡単な意見を記してみたい。  最近の相撲で顕著なのは、「引き落とし」や「はたき込み」によって、ほとんど一瞬のうちに勝負のついてしまうものが多いことである。優勝のかかる大事な取り組みで、モンゴル出身の横綱か大関が「変化」したこともあったように思う。こうした相撲を目のあたりにする観客は、大いに失望するであろう。このような相撲を見るために時間を費やしているのではないと。現行のルールでは、上記のような「汚い手」を防ぐ方法がない。単なる勝ち負けによって、優勝や昇進が決まるからである。  この問題を解決する方法として、私は採点制の導入を提案したい。各取り組みの勝敗が決した直後に、各勝負審判が両力士の相撲の取り方を数値で評価し、掲示板に公表する方法だ。汚い手を使った力士の評価は低く、全力を出し切った力士や巧みな技を使った力士の評価は高くなる。一場所ごとに各力士の評価点数が合計され、合計点と勝敗数の両方が考慮されて昇進が決定されるようにすべきだ。 * 優勝者の決定にも、評価点数を使えるだろう。  この制度が導入されれば、各力士は見ごたえのある相撲をとるようになるに違いない。それだけでなく、大相撲の観客や中継番組の視聴者も相撲を真剣に見るようになり、採点結果に強い関心を持つようになろう。各自が自分で採点して、勝負審判の採点と比較するはずだ。そこに大きな差があれば、なぜかと考えて相撲に対する興味が深まるであろう。中継番組の解説者も採点結果に関する解説をするなどして、中継が盛り上がるはずだ。  ただし、真剣な相撲によって怪我が増大することは防がなければならない。最先端の科学と材料を使って、土俵とその周囲から怪我の危険を削減する方法を考案してもらいたい。土俵の盛り土の周囲は、柔らかい緩衝材などで囲んだ方がよいのではなかろうか。怪我の減少は休場者を減らし、相撲の人気を高める。  世界のなかで大相撲に関心を持つ人たちは少なくない。日本の優れた文化を求めて世界中から広く人材が集まるように工夫してもらいたい。彼らは日本文化を世界に広める役割も果たす。特定の少数の外国から集まりすぎると今回のような事件が起こったり、日本文化の良さが...

平成29年12月19日 言論の自由のない国との交流を密にしてはいけない

イメージ
言論の自由がない国との交流はほどほどにすべきだ。一国における自由な言論は、一個人における自省と同じ働きをする。 自省的な態度がなく勝手気ままに行動する人間とは、誠実な人間関係を築くことができない。それと同様に、言論の自由のない国とは、道義や理性に基づいた外交関係を維持することができない。持ちつ持たれつの関係を続けることは不可能なのだ。 一国の中に言論の自由があれば、汚い外交はたとえ国益を増大させるとしても、国内で批判する個人が現れる。言論の自由がなければ、そうした批判者は投獄されたり殺害されたりする。その点から観ると、日本の現状は過剰なほどの言論の自由によって特徴づけられる。一部の日本人は国益を無視し、他国の利益を図るために 噓 までいうほどだ。 中国や韓国が日本に対して難癖をつけ、北朝鮮が日本人を人間扱いしないのは、それらの国に言論の自由の存在しないことが一因である。かつては日本の領土と認めていた尖閣諸島を、付近に石油資源がありそうだと判明すると、急遽自国領土だと主張する中国の汚さ。永遠に補償金と謝罪を求め続けるために、慰安婦像を次々と建てようとする韓国の汚さ。拉致被害者の遺骨として別人の骨を送り付ける北朝鮮の汚さ。言論の自由のある国であるならば、こうした汚さを批判する人間が二人や三人くらい現れるはずである。日本の北方領土を支配するロシアも汚い手を使った。 言論の自由のない国とは、ギブ・アンド・テイクの爽やかな外交を展開することができない。たとえば中国や韓国は、日本が与えた「ギブ」の一割の「ギブ」でも、日本に対して返したであろうか。それらの国に誠意が通じると考えるのが間違いである。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 荒井一博のホームページ  http://araikazuhiro.world.coocan.jp/ 荒井一博のブログ   国内向け  https://araikazuhiro.blogspot.jp/   海外向け  https://araikazuhiroen.blogspot.jp/ 荒井一博のツイッター   国内向け  https://twitter.com/araikazuhiro88   海外向け  https://twitter.com/araikazuhiroe88 ...

平成29年12月14日 言論の自由と一橋大学の現実

イメージ
 一橋大学(蓼沼宏一学長、佐藤宏・沼上幹・辻琢也副学長)の学園祭である「 KODAIRA 祭」で、百田尚樹氏の登壇予定だった講演会の中止される騒動が本年にあった。一橋大学は「自由の殿堂」と自称しており、自由最重視の大学として自己の地位を築いてきた。  しかしながら、言論の自由の保障されない現実の環境は、「自由の殿堂」の名に値しない。言論の自由は、基本的な自由のなかでも極めて重要なものである。一部の学生だけでなく、一部の教員もその講演に反対したようだ。多くの人たちにとって最も不可解なのは、大学が当事者意識を発揮せず、自分たちとは無関係だとして、問題に堂々と関与しようとしなかったことである。いじめを見て見ぬふりをする中学校などと同じ態度だ。  こんなことで、わが国の指導者となるべき人材を育成したり、わが国の学問的水準を高めたりすることができようか。「自由の殿堂」を標榜しているならば、自由が尊重されていることを自ら実践して模範を示すべきであろう。論文や著書ではどのような綺麗ごとも表明できる。重要なことは、大学として表明したことを自ら実践するとともに、実践できる人間を育成することである。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 荒井一博のホームページ  http://araikazuhiro.world.coocan.jp/ 荒井一博のブログ 国内向け  https://araikazuhiro.blogspot.jp/ 海外向け  https://araikazuhiroen.blogspot.jp/ 荒井一博のツイッター 国内向け  https://twitter.com/araikazuhiro88 海外向け  https://twitter.com/araikazuhiroe88

平成29年12月11日 新自由主義は文化を破壊する

イメージ
 日本の経済社会が長期にわたって停滞していることの一因は、新自由主義の跋扈にあると私は考える。新自由主義の影響は多岐にわたるが、ここでは文化的影響に触れてみたい。  新自由主義を含めた自由主義一般には、自由尊重以外の価値がない。人間は法と契約を守って自由に生きればよいとそれは教える。そのため、通常の意味の倫理や道徳や志などの人間の生き方に関係する価値は全く問題とされない。新自由主義は文化と無縁なのである。 このように極端な思想が日本社会を支配するようになったため、他者に対する配慮や社会に対する貢献といった価値(精神)が希薄になってしまった。他人や社会一般はどうでもよく、自分の利益さえ確保できればよい、と多くの人が教えられ考えるようになった。学校でも自由以外の価値を教えることが難しくなった。  しかし、日本社会を欧米社会と比べて際立たせていたのは、まさに他者に対する配慮や社会に対する貢献といった価値の尊重にほかならない。そのような価値の尊重が効率的な組織を生み、安全で住みやすい社会を作り出した。 新自由主義は市場の理論をもつのみで、組織・家庭・社会一般に関する思想を欠いている。社会全体があたかも市場のみでできているように見なす思想である。市場についても、きわめて偏った見方をしている。組織や家庭や社会一般は文化的な要因に強く規定されて機能するが、新自由主義はそれらの存在を無視しているのである。 自由主義の浸透とともに、かつて世界で最も効率的といわれた日本の組織は、活気のないものに変貌してしまった。企業は労働者を単なるインプットと考えるようになり、若者をはじめとして多くの人たちが不安定な仕事に従事している。孤独死の増大は、社会一般における人間関係の希薄化の象徴であろう。大学生に向学心がないのも、使命感の欠如と密接に関係している。 われわれはこのように偏った思想から一刻も早く脱却して、日本の活力を復活させなければならない。 参考文献: 荒井一博『自由だけではなぜいけないのか―経済学を考え直す』講談社選書メチエ、 2009 年。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 荒井一博の英語のブログ   https://araikazuhiroen.blogspot.jp/ 荒井一博のツイッター   https://...