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平成30年3月11日 日本は衰退している(4)日本人の倫理観①

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 日本人は集団主義的か否かという議論が、心理学の分野でなされることがある。日本人は集団主義的であると多くの日本人が信じているので、そうでないと主張すれば学界の注目を浴びて、そうした主張の論文は権威ある雑誌に掲載される確率が高まろう。そして、実際にそのように主張し注目を浴びている社会心理学者が存在する。  しかし、日本人が集団主義的である明確な証拠を示したい。日本人は組織内で悪事を働くときに、ほぼ確実に集団主義的になる。日本人が組織内において一人だけで悪事を働くのはきわめて稀で、銀行員が銀行の金を使い込んだ話を稀に耳にする程度だ(最近はほとんど聞かない)。  ここ数年、企業の不祥事がいくつか発生している。神戸製鋼所の品質データ改竄、三菱自動車の燃費データ不正、東洋ゴム工業の免震ゴム偽装などだ。 1990 年代半ばにも企業の不祥事が頻発した。これらのほとんどすべてが「組織ぐるみ」である。つまり、組織内の何人かが申し合わせて不正を決断し、それを組織が実行しているのだ。彼らは組織内で有力な「仲間(集団)」で、通常その中には管理者も入っている。社会科学でインフォーマル・グループと呼ばれるものの例にほかならない。  彼らは業績を挙げたかのように見せるために、仲間で申し合わせて不正を行う。仲間で行えば、良心の呵責をほとんど感じなくて済む。組織内には仲間でない組織成員もいるが、不正を公にすると集団で嫌がらせを受けると予想するため、不正を問題にしない。組織内で有力な集団に目を付けられると毎日が地獄になるので、だれもその不正を指摘したり暴こうとしたりしないのだ。  日本の組織でこのような不祥事が発生するメカニズムを、私は『終身雇用制と日本文化』で詳しく論じたことがある。不祥事の発生した某組織の成員にその後偶然会う機会があったとき、同書に書かれている通りのことが起きたといわれた。また、日本の組織内で不祥事が発生するときは、ほぼ必ず派閥などのインフォーマル・グループがかかわっていることを『文化の経済学』の第三章で詳しく論じた。  日本は伝統的に信頼を重視する社会であり、世界的にみると今日でも信頼が重視されている。日本の犯罪率が世界最低水準であることがその強力な証拠だ。 しかし新自由主義の浸透とともに、短期的な金銭的利益を重視するようになった結果、インフォーマル・...

平成30年3月4日 禁煙政策はどうあるべきか(3)

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 禁煙政策に関する論説の第 1 回では、喫煙が外部不経済(迷惑)を生み出すことを述べた。第2回では、喫煙者が嗜癖に陥るためタバコを消費しない自由が侵害されると論じた。両者の一つだけでも喫煙規制の根拠に十分になりうる。飲食店や路上を含めて、喫煙は禁止されるべきである。好ましくないことではあるが、政府がタバコの販売を合法としているならば、喫煙したい個人は他者に迷惑のかからない範囲で喫煙すべきである。以下では、今までに述べたことに対する補足をしておきたい。  喫煙と疾病との関係はまだ十分に解明されていないものもあるが、喫煙は多くの疾病の原因になることはほぼ明らかであろう。なによりも、多くの喫煙者自身が自分の体調の不具合をよく理解しているはずである。多量の痰が出たり風邪が治りにくくなったりする。こうした健康問題を引き起こす消費財は、製造や販売を禁止するのが政府の役割である。  武田邦彦氏は喫煙が癌の予防に役立つようなことをユーチューブで説いているが、喫煙には嗜癖の性質があるため、ほとんどの喫煙者は健康を害するほど喫煙してしまう。武田氏は嗜癖をどのように考えているのか、そして喫煙が健康によいのであれば何故自身は喫煙しないのかを説明していただけたら有り難い。万一ある程度の煙を吸い込むことが健康によいのであれば、タバコ以外の植物を燃やした煙を、嗜癖を起こさない程度吸い込むのでは不十分なのかも、説明していただけると有り難い。  禁煙運動はナチのしたことだ、といって禁煙運動に反対する人がいる。これは全く非論理的な主張である。ナチのしたことをすべきでないと主張する人は、呼吸も食事もしないのであろうか。ナチの人たちは、たっぷりと呼吸も食事もしていたのである。  今回の禁煙論議では、飲食店が禁煙になると来客が減少すると危惧されているようだ。しかし、すべての飲食店が禁煙になれば、来客減少の効果はほとんどないのではなかろうか。実際のところ、外国における禁煙条例の実施はレストランの売上に影響しなかったという報告がなされている。また喫煙者の支出減は非喫煙者の支出増によって埋め合わされてもいた。詳しくは下記の拙著を参照されたい。 荒井一博『喫煙と禁煙の健康経済学-タバコが明かす人間の本性』。私のホームページにて無料閲覧できます。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 ...

平成30年2月25日 禁煙政策はどうあるべきか(2)

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 喫煙の自由が個人の権利になりえない重要な要因がもう一つある。それは嗜癖という恐ろしい現象だ。一年も喫煙を続けていると、タバコの消費をやめようと思ってもやめられなくなる。体の不調などのさまざまな理由で禁煙したいという意思はあるのに、体が禁断症状を生み出し喫煙を要求するのだ。これが嗜癖の重要な特徴にほかならない。多くの喫煙者が禁煙したいと思っているにもかかわらず、それに成功しない理由は、嗜癖という現象のためである。  論理的に考えてみると、嗜癖は個人の自由を侵害するといえよう。タバコの消費をしたくないと思う個人が、その意思に反してタバコの消費を強要される状態に置かれているからだ。タバコは吸いたくないと思っても、体の中に生まれた嗜癖という「強制力」がその希望の実現を阻止するのである。これは自由が制約されている状態にほかならない。工場の吐き出す煤煙を逃れて清浄な空気を吸いたいと思っても、それができない状態と同じである。タバコを消費し続けると、タバコを消費しない自由が侵害されることになってしまうのだ。  多くの麻薬が同様な性質を持つ。そのため、強い嗜癖性を有する物質は法的に規制することが正当なのである。つまり、消費を禁止すべきなのだ。消費を個人の自由に任せたら、大多数の個人が嗜癖に陥り、立ち直ることができなくなり、社会は崩壊してしまう。自由主義者はあまり認めたくないようであるが、人間は強い嗜癖に打ち勝てるほど合理的あるいは強靭ではないのだ。  今日ではほとんどの国で麻薬の取引や消費が禁止されている。それと同様にタバコの消費も禁止されるのが好ましい。私もかつては喫煙していたが、禁煙したいと長年考えて失敗を繰り返した苦い経験がある。消費をやめたいと思ってもやめるのがきわめて困難な消費財は元々供給しないのが社会的に好ましい。個人の判断で消費を決めさせるという考えはきわめて論拠薄弱なのである。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 連絡先  kazuhiro.arai888@gmail.com 荒井一博のホームページ  http://araikazuhiro.world.coocan.jp/ 荒井一博のブログ 国内向け  https://araikazuhiro.blogspot.jp/ 海外向け  https://araikazuhir...

平成30年2月18日 禁煙政策はどうあるべきか(1)

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 東京五輪を機に公共の場での全面禁煙を実現しようという動きが、現段階では腰砕けになりそうだ。喫煙や禁煙をどう考えたらよいかについて、要点を記してみたい。基本的に重要なことは、喫煙が個人の自由として主張できる完全に正当な権利になりえないことである。  タバコの煙が漂う空間では、ほとんどの非喫煙者が強い不快感を抱く。一刻でも早くそこから逃れたいと思うだろう。そのような場で、ディナーを楽しみたいとか、午後のひとときを友人とティーでくつろぎたいと思う非喫煙者はほぼゼロである。実際のところ、喫煙者さえ他人の出したタバコの煙に対しては不快感を抱く。 経済学的に表現すれば、喫煙することによってタバコの煙を周囲の人に吸わせる喫煙者は、外部不経済を生み出しているといえる。換言すれば、喫煙者は空間を共有する人たちに不当な害を与えているのだ。これは全く正当化できない。周囲の人たちに汚水をまき散らすのを正当化できないのと同様である。  自動車が排気ガスを出すのは許容されているのに、なぜ喫煙は許容されないのか、と主張する喫煙者がいるかもしれない。厳密にいうと自動車の排気ガスも問題ではあるが、レストラン内で抱く排気ガスに対する不快感はほとんど無視できるのに、タバコの煙に対する不快感は耐え難いのである。タバコの煙は許容限度を超えているともいえよう。  以上の理由だけでも、公共の場における喫煙は規制されるべきである。さらに受動喫煙は多種類の疾病を引き起こす可能性も無視できない。特に、妊婦や特殊な体質の人たちには好ましくない影響が強く現れるであろう。  飲食店に入ろうとしてドアを開けたときにタバコの煙の臭いがすると、日本は先進国でないのかと私は感じる。日本は素晴らしい国だと外国人に感じてもらうためにも、飲食店を含む公共の場では全面禁煙にすべきであろう。禁煙に反対の論者もいるので、その論拠の問題点に後ほど触れてみたい。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 連絡先  kazuhiro.arai888@gmail.com 荒井一博のホームページ  http://araikazuhiro.world.coocan.jp/ 荒井一博のブログ 海外向け  https://araikazuhiroen.blogspot.jp/ 荒井一博のツイッター 国内向...

平成30年1月28日 日本は衰退している(2)経済学者の責任

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 「失われた 10 年」が「失われた 20 年」になり、ほとんどの日本人はもう「失われた 30 年」に関心を示さなくなりつつある。日本がその国際的地位を大きく下げた平成の時代に、日本の経済学者は何をしていたのだろうか。わが国には何千人もの経済学者がいるにもかかわらず、彼らは日本の衰退をただ傍観していたのか。最も責任の重いのはマクロ経済学の専門家で、彼らこそが日本の不景気や低成長の処方箋を書くべきであった。 一部のマクロ経済学者は、世界を支配しつつあった新自由主義に依拠して処方箋を書いたが、実際には何の役にも立たなかった。また、莫大な財政支出によって巨額の財政赤字を累積させたものの、実感できる景気上昇はなく、ほぼ 30 年にわたって低成長が続いている。近年の金融政策は2%の物価上昇を目標としているが、まったく実現されていない。マクロ経済学者以外にもかなりの責任があろう。  この 30 年間の歴史で判明したことは、少なくとも日本のマクロ経済において、新自由主義が役に立たないことである。他のマクロ経済学の有効性も怪しい。日本の経済学者は誤った処方箋によって、 1 億人以上の国民を苦しめた。米国だけでなく日本でも個人間の経済格差が拡大して、この期間に経済成長の恩恵を受けたのは一部の富裕層のみである。  こうした現実を目の当たりにしても、新自由主義的なマクロ経済学者をはじめとする日本の経済学者が、深く反省しているようにはとても思えない。深い反省の記事を目にしたこともない。テレビなどのメディアに登場する経済学者は、むしろ日本経済が悪化するほど、多くの仕事が自分にまわってくる、と考え喜んでいるかのようである。正しい治療をしない医者が患者にすがられ儲かるのに似ている。  直截にいえば、日本の学界をリードする経済学者とって、日本経済のことは二の次の重要性しか持たない。彼らにとって最も重要なことは、米国の経済学界における自分の地位を高くすることである。米国の経済学雑誌に自分の論文が掲載され、米国の大学などで自分が気持ちよく受け入れられることだ。そうであれば、日本における自分の地位も自動的に高くなる。日本における経済学者の社会的地位はほぼ米国基準だからである。 米国の経済学界における自分の地位を高くするためには、米国における経済学の研究動向に目を凝らし、米国人経済学...

平成30年1月21日 日本の山は巨大資源だ

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 航空機に乗って上空から日本の国土を眺めると、そのほとんどが山であることを実感する。日本の国土の約三分の二は山地だ。しかもそのほとんどの部分は、訪れる人が極めて稀である。多数が訪れる山の観光地はほんの一部であり、地元の人々がときどき足を踏み入れる山も、山地全体から見たらほんのわずかな部分にすぎない。  日本の排他的経済水域の面積は世界第六位とかで、最近は日本人の目が海洋にも向かい始めているが、国土の三分の二に達する面積を有しながら、今まで軽視されてきた山地にも目を向けるべきである。すなわち、その有効活用を考えるべきだ。  日本の山には清流や滝があり、青々と茂った草木があり、小鳥のさえずりがある。少なからざる日本人がリュックを背負って山に入るのは、そうした自然を求めているからであろう。山歩きはそれらの人たちに、生命に満ち溢れた非日常的な景色、新鮮な森林の空気、生きていることの喜び、そして適度な運動と疲労を与えてくれる。山道が歩きやすく整備されていれば、毎週でも山歩きをしたいという人たちは多いであろう。  しかし、日本では一部を除いて山の遊歩道が十分に整備されていない。地元の人しか知らない山道が多すぎる。それらを拡張し歩きやすく整えるとともに、標識や地図を充実させ、携帯電話や GPS を山中でも使えるようにすべきだ。そうすれば多数の人たちが山を訪れるようになり、日本の山地全体が大観光地に変身する。各種の清潔な宿泊施設も完備されるであろう。  私の経験からは、ニュージーランドがある程度良好な山の遊歩道を整備していると感じた。オークランド近郊の低い山にも、また標高の高いクック山の氷河周辺にも、いくつかの遊歩道があり、普通の人たちが山歩きを楽しむことができる。 日本には広大な山地があり、植物的・地形的な多様性も大きいので、遊歩道を全国の山地一帯に張り巡らせば、質的に世界トップレベルの山歩きを楽しむことができるようになろう。もちろん、コンクリートの使用などは少なくして、自然破壊を最小限にすべきである。遊歩道の建設は高速道路の建設などと違ってローテクかつ割安であり、地元の小規模建設業者でも十分に対応できるはずだ。一日千円以下の遊歩道使用料を徴収すれば、建設費用の回収が可能かも知れない。 日本の山の魅力は世界屈指ではないかと個人的に感じている。雄大な景色を...

平成30年1月14日 日本は衰退している(1)一般労働者

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購入した商品の使い方や契約書の説明などが分からないために、製造元や販売会社に電話することがある。そうしたときに、まともな答えの得られない場合のほうが多いように感じるのは、私だけではあるまい。これには複合した要因が関係しているであろう。 第一に、電話で対応する社員は自分の仕事に関してあまり勉強していない。少しでも込み入ったことを質問すると、彼女ら(彼ら)は答えられなくなる。契約書など読んでいないようだ。答えられなくなり、「ちょっとお待ちください」といって、質問者の了解も得ずに電話を保留にして、 5 分以上も待たせることも稀ではない。他の社員か上司に聞きに行っているのであろう。質問者の質問に答えられず、沈黙してしまう社員も少なくない。ずっと沈黙していて、何とも思わないのであろうか。 第二に、そうした社員は勉強していないために知識不足であるだけでなく、顧客のために良質なサービスを提供しようとする意思もないようである。与えられた仕事を適当にして一日を過ごせればよいと考えているようだ。顧客は神様だと考える企業がかつては多かったが、今では消滅したかもしれない。 第三に、明らかに会社は社員教育を熱心に行っていないようである。社員の知識が十分なことを確認(テスト)もせずに、電話の対応につかせているようだ。かつての日本企業は社員教育に熱心であったが、今では事態が大きく変わってしまった。社員がまずい対応をしても会社は恥ずかしくないようだ。 第四に、電話で対応している社員の多くは非正規雇用者ではないか、と私は推察する。非正規雇用なので会社は十分な社員教育を行っていないのではないか。また社員も、いつ雇用が打ち切られるかわからないので、勉強を一生懸命しないと推察される。 歴史的に日本は一般庶民が優秀な社会であった。江戸時代でも識字率が高く、一般庶民は勉強熱心であった。しかし今日の一般庶民は不勉強であるばかりか、他者に対する配慮も大きく失っているようだ。一般庶民を雇用している企業も熱心に教育を行わないだけでなく、新自由主義に影響されて、彼らを使い捨てインプットとして扱っているように私は感じる。一般労働者の仕事能力低下は、日本の衰退を象徴する事実にほかならない。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 荒井一博のホームページ  http://araikazuhiro...

平成30年1月7日 日本の英語教育をどうすべきか

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 比較的若い年齢から真面目に英語を学習すれば、将来は英米人と自由に会話や議論ができるようになる、と文科省の官僚をはじめ多くの日本人が信じているかもしれない。こうした信念に基づいて、今日の小中高大の英語教育がなされていると推察される。 しかしこの信念は完全な誤りであることを、ここで指摘しておきたい。私自身が多大な時間を英語学習に投入し、また日本人としては英語のできる多くの人たちを観察してきた結果、こうした確信を抱くようになった。 そのため今日の日本の英語教育は、努力と資源の壮大な無駄遣いを生み出す強制労働にすぎず、その効果は小さいと考えている。こう指摘され以下の私の主張を知れば、賛成する日本人も多いであろう。私の考えの要点を記しておきたい。  まず、英語がたいへん複雑で外国人にとって習得困難な言語であることを認識する必要がある。特に、印欧語に属さない日本語を母語に持つ日本人には習得がきわめて困難だ。ほぼ不可能ともいえよう。その理由はいくつかある。 第一に、英語は仏語や独語などと比べても単語数がきわめて多い。単語数が多いと、記憶することが大変なだけでなく類義語が多くなり、それらの間の微妙な相違の理解も必要になる。それだけでなく、英単語の使い方には規則性が少なく、それぞれ暗記しなければならない。 第二に、英語には動詞と前置詞などが結合して特別な意味を生み出す句動詞( get on など)が多数あり、それも記憶しなければならない。 第三に、さらにイディオムという特殊な表現もあって記憶していなければ、円滑な理解ができない。 以上は記憶の問題であるが、英語の論理にも理解困難な側面があり、日本人が完璧に理解することはまず不可能である。その一つが冠詞の使用だ。日本人が冠詞とくに定冠詞を正確に使うことはほぼ不可能かもしれない。かつて、著名な同時通訳者に冠詞はどう学習したらよいかと尋ねたことがある。答えは、冠詞だけはどうしようもないというものであった。これが、第四の習得困難な理由である。 第五の理由として、数の扱いに関する英語の論理を挙げたい。数えられる名詞として扱うか否か、単数とするか複数とするかの問題である。英語は数に対するこだわりの異常に強い言語のようだ。冠詞と同様に、辞書を調べただけでは十分正確に表現できる問題ではない。英語を話す場合は辞書を使えないの...

平成30年1月1日 謹賀新年 日本社会の再構築を

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 今から 10 年ほど前にある会合で講演したことがある。もう一人の講演者がいて、彼は技術力によって日本が世界に貢献できると主張した。その後に話をした私は、最初の講演者に申し訳ないが、日本の技術力には悲観的だと述べた。当時の社会の雰囲気や、指導的立場にいた人たちと若者の行動を観察して、将来に対して悲観的になっていたからだ。  その 10 年ほど前には、劣化が進行する日本社会を告発する憂国の書『終身雇用制と日本文化』(中公新書、 1997 年)を上梓した。原稿を書いているうちに涙が出てきて、泣きながら書いた。  今日に至って経済データに目をやると、過去二十数年の日本経済はまことに冴えないことが分かる。実質 GDP は、バブル崩壊後の 1992 年から 2002 年までの 10 年間に 8.1 %、 2012 年までの次の 10 年間に 8.6 %成長したにすぎない。米国の値はそれぞれ 39.3 %と 18.9 %、ドイツは 15.7 %と 11.8 %である。日本の実績がいかに見劣りすることか。  日本の一人当たり GDP は、 2000 年に OECD35 カ国中で第 2 位となったのが最高で、 2016 年には第 18 位に転落した。米国のほぼ三分の二で、かつては先進国のなかでも貧しいといわれていた英国やニュージーランドにも抜かれてしまった。  経済大国といわれたこともある日本であるが、今日では大きく衰退している。ごく一部に富裕者は現れたものの、貧富の格差が拡大し、若年・壮年層は全体的に貧しくなった。非正規雇用労働者が 4 割に達している。日本発の技術革新をあまり聞かなくなった。日本は今までに幾多の困難を克服して世界の人たちを驚かせてきたが、今日の日本にはそうした力がない。隣国に侮られる事態も生じている。 文化的劣化はもっと深刻だ。劣化した文化を回復させることは極めて困難だからである。日本社会に拝金主義が浸透し、大人は金儲けに取り憑かれているようだ。以前に述べたように、大学生の向学心は衰え志も低くなっている。日本人が大切にしてきた他者に対する配慮の文化も消えつつあるといえよう。企業経営者に覇気がなく深刻な不祥事も明るみに出ている。大学の使命感も希薄なのは以前に触れたとおりだ。私の悲観は現実になりつつある。 こうした大きな変化を引き起こした主...

平成29年12月11日 新自由主義は文化を破壊する

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 日本の経済社会が長期にわたって停滞していることの一因は、新自由主義の跋扈にあると私は考える。新自由主義の影響は多岐にわたるが、ここでは文化的影響に触れてみたい。  新自由主義を含めた自由主義一般には、自由尊重以外の価値がない。人間は法と契約を守って自由に生きればよいとそれは教える。そのため、通常の意味の倫理や道徳や志などの人間の生き方に関係する価値は全く問題とされない。新自由主義は文化と無縁なのである。 このように極端な思想が日本社会を支配するようになったため、他者に対する配慮や社会に対する貢献といった価値(精神)が希薄になってしまった。他人や社会一般はどうでもよく、自分の利益さえ確保できればよい、と多くの人が教えられ考えるようになった。学校でも自由以外の価値を教えることが難しくなった。  しかし、日本社会を欧米社会と比べて際立たせていたのは、まさに他者に対する配慮や社会に対する貢献といった価値の尊重にほかならない。そのような価値の尊重が効率的な組織を生み、安全で住みやすい社会を作り出した。 新自由主義は市場の理論をもつのみで、組織・家庭・社会一般に関する思想を欠いている。社会全体があたかも市場のみでできているように見なす思想である。市場についても、きわめて偏った見方をしている。組織や家庭や社会一般は文化的な要因に強く規定されて機能するが、新自由主義はそれらの存在を無視しているのである。 自由主義の浸透とともに、かつて世界で最も効率的といわれた日本の組織は、活気のないものに変貌してしまった。企業は労働者を単なるインプットと考えるようになり、若者をはじめとして多くの人たちが不安定な仕事に従事している。孤独死の増大は、社会一般における人間関係の希薄化の象徴であろう。大学生に向学心がないのも、使命感の欠如と密接に関係している。 われわれはこのように偏った思想から一刻も早く脱却して、日本の活力を復活させなければならない。 参考文献: 荒井一博『自由だけではなぜいけないのか―経済学を考え直す』講談社選書メチエ、 2009 年。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 荒井一博の英語のブログ   https://araikazuhiroen.blogspot.jp/ 荒井一博のツイッター   https://...