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経済学部は必要なのか(79) 文理融合型などとの相違

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文理融合型などとの相違 近年、文理融合型やリベラルアーツ型の教育の人気が高まっており、そうした教育を行う大学も増えている。ここで、それらの教育と二重学位や二重専攻との相違に触れておきたい。 文理融合型の教育は、学びたいテーマを文系科目と理系科目の両方から学ぶことができるという宣伝文句で特徴づけられよう。情報系・人間科学系・環境系の学部に多い。リベラルアーツ型の教育は、それよりも多様な分野にまたがった教育を意図していよう。 本評論が推奨する二重学位や二重専攻は、あくまで複数分野の体系的知識の習得であって、文理融合型やリベラルアーツ型の知識の習得と基本的に異なる。後者はともすると「つまみ食い」的な勉強で終わりかねない。またカリキュラム設計に不備があると、大学院進学を希望する場合に、どの分野に進学できるのかという問題が生じるであろう。なお米国的なリベラルアーツ教育は、卒業生の大学院進学を前提としているので、体系的知識の習得は大学院に任される。 本評論は特定分野の体系的知識の習得が重要であることを強調したい。それが若者の思考力を鍛えるからだ。またそれは、今日の人類が特定の分野でどのような世界観を生み出したかを学生に理解させ、彼ら自身の世界観の樹立に寄与する。先述のように、現在の経済学は深刻な欠陥を有するものの、人類が今日までに蓄積した経済に関する知であるため、二重学位などで経済学の体系を学ぶことには意義があろう。経済学の欠陥を矯正しようとする研究者が多数現れる可能性もある。そして経済学の改善が進めば、経済学を学ぶ意義は増大するはずだ。 特定分野の体系的な知識を習得すると、前述の「思考の座標軸」が頭脳のなかに形成される。そして、新しい問題に直面したとき、その問題の完全解決には至らなくても、その分野なりの解決法、あるいはそれをある程度発展させた解決法を提示でき、その長短さえ論じられるようになろう。二重学位や二重専攻を経験していれば、二つの座標軸に基づく二次元的思考が可能になるので、この力は倍以上になりうる。 文理融合型の教育や実務重視の教育を受けた個人には、このような思考の座標軸が形成されない可能性が高い。また、大学で学んだテーマの重要性が将来低下すると、彼の受けた大学教育の社会的有用性も低下してしまうであろう。 Schultz (1975) は

経済学部は必要なのか(78) 経済学における数学のあり方

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経済学における数学のあり方  右では経済学と数学の二重学位や二重専攻に触れなかったが、これは問題のある組み合わせでもある。まず、経済学を理解したり経済学の論文を書いたりするためには、現時点でこの組み合わせがベストだといえよう。実際のところ、この二分野を専攻してノーベル賞を受賞した経済学者が何人かいる。 しかし、経済学にとって数学はあくまで表現手段にすぎない。そして、数学の適用は経済学の中にある狭い思考を極端に推し進め、既存の経済学以上に視野を狭める危険をともなう。市場に対する個人の影響力は無視しうるという経済学の考え方を、高等数学の測度論の適用によって極限まで推し進めた Hildenbrand (1974) の理論 がその一例である。こうなると、経済理論が現実からますます遠のく。 経済学史を俯瞰すれば、数学の適用の進行によって、経済学の人間観は極限まで単純化されてきたことが理解されよう。経済学の祖であるアダム・スミスには、「公平な観察者」などの概念を導入した道徳論と人間観があった。だが、数学的な表現がある程度完成した新古典派経済学では、法を犯さないかぎり何をするのも自由だという人間観に変質する。最近ではさらに進化して、青木・奥野(一九九六)に見られるように、うまく行っている他者を模倣する、という人間観も現れた。法を犯して利益を上げている他者がいれば、それを模倣することになろう。 数学者が経済問題を分析する際は、既存の数学を使って分析できそうな面白い問題にまず注目し、その計算結果を論文にする場合が多いと推察される。論文の発想段階にまず数学があるのだ。しかし経済学の研究者は、経済的視点から発想するのが基本であるべきだろう。たとえば、今日の経済的格差や低成長に関する問題意識が最初にあって、そのなかの特定の問題を考察する過程で数学を使用するという態度が必要と考えられる。 数学には物理学と歩調を合わせて発展してきた時期があった。ならば数学者や数理経済学者に、右のような問題意識を体験しながら、社会科学に適した数学を開発するよう要望したい。労働に関する簡単な例を取り上げてみよう。労働に対する現実の人間の感じ方は複雑で、今日の経済学で仮定されているような単なる苦痛の源泉ではない。特に日本人の場合はそうだ。労働すれば苦痛や苦労や面倒くささを感じるが、(何もしな

経済学部は必要なのか(77) 研究の発展と新分野の誕生

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研究の発展と新分野の誕生  二重学位や二重専攻の七番目の便益は、研究がいっそう発展したり新分野が誕生したりする点にある。この潜在的効果も甚大だ。二重学位や二重専攻の学生が大学院に進学して研究者になれば、二分野の知識を基にして新しい研究を始めたり、新分野を開拓したりすることが容易になるに違いない。先に触れたが、今日では経済学と他分野との学際的な研究が多くなりつつある。二重専攻の多い米国でそうした研究が盛んなのは納得できよう。  経済学との学際研究が長い歴史をもつ分野はすでにいくつか存在する。歴史学・地理学・農学・文化人類学・倫理学などだ。経済史と経済地理学と農業経済学は、経済理論を取り入れて、経済学内の小分野になったといえよう。経済人類学は、現段階でどちらかといえば文化人類学内の分野である。経済倫理学(ここでは経済哲学も含む)は、経済学とも倫理学(哲学)ともいいうる小分野だ(経済学の起源は倫理学)。  今日ではもう数十年の歴史をもつようになった学際分野に、教育の経済学・家族の経済学・犯罪の経済学・法の経済学・医療の経済学・環境経済学・計量経済学がある。伝統的には他分野で研究されていた問題に、経済学的な概念と分析手法を適用して、新しい知識の体系が形成されるようになった。そのためほとんどで経済学的論理が重視されている。  学際分野として今日人気のある経済心理学と健康経済学の歴史は比較的浅い。だいぶ以前に経済学と心理学の接触は見られたが、最近は行動経済学の急発展とともに、両者の関係が緊密になっている。健康に対する現代人の関心の高まりと健康データの蓄積によって、健康に関する経済学的な分析も盛んだ。健康維持は費用をともなう行動で、経済分析に乗りやすい。  こうした学際分野の研究において二重学位や二重専攻がきわめて有益なのは明らかだ。両分野に関する詳しい知識があれば、問題意識が高まり、概念や分析用具も豊富になって、研究が広がったり深まったりすることは容易に理解できよう。新しい研究対象を開拓する可能性が高まることも予想できる。残念ながら、これらの学際分野はほとんどが米国起源だ。経済学の分野で日本起源のものが一つでもあったら、日本の学生が目を輝かせて研究に邁進するだろう。  本評論の視点から指摘すると、右で上げた学際分野のほとんどにおいて、個人は自分の負担