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平成29年12月24日 大相撲に採点制を導入したらどうか

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 横綱日馬富士の引退につながった事件に関連して、大相撲に対する批判が高まっている。大相撲が優れた日本文化の一面を伝える役割を果たすことを願う者として、簡単な意見を記してみたい。  最近の相撲で顕著なのは、「引き落とし」や「はたき込み」によって、ほとんど一瞬のうちに勝負のついてしまうものが多いことである。優勝のかかる大事な取り組みで、モンゴル出身の横綱か大関が「変化」したこともあったように思う。こうした相撲を目のあたりにする観客は、大いに失望するであろう。このような相撲を見るために時間を費やしているのではないと。現行のルールでは、上記のような「汚い手」を防ぐ方法がない。単なる勝ち負けによって、優勝や昇進が決まるからである。  この問題を解決する方法として、私は採点制の導入を提案したい。各取り組みの勝敗が決した直後に、各勝負審判が両力士の相撲の取り方を数値で評価し、掲示板に公表する方法だ。汚い手を使った力士の評価は低く、全力を出し切った力士や巧みな技を使った力士の評価は高くなる。一場所ごとに各力士の評価点数が合計され、合計点と勝敗数の両方が考慮されて昇進が決定されるようにすべきだ。 * 優勝者の決定にも、評価点数を使えるだろう。  この制度が導入されれば、各力士は見ごたえのある相撲をとるようになるに違いない。それだけでなく、大相撲の観客や中継番組の視聴者も相撲を真剣に見るようになり、採点結果に強い関心を持つようになろう。各自が自分で採点して、勝負審判の採点と比較するはずだ。そこに大きな差があれば、なぜかと考えて相撲に対する興味が深まるであろう。中継番組の解説者も採点結果に関する解説をするなどして、中継が盛り上がるはずだ。  ただし、真剣な相撲によって怪我が増大することは防がなければならない。最先端の科学と材料を使って、土俵とその周囲から怪我の危険を削減する方法を考案してもらいたい。土俵の盛り土の周囲は、柔らかい緩衝材などで囲んだ方がよいのではなかろうか。怪我の減少は休場者を減らし、相撲の人気を高める。  世界のなかで大相撲に関心を持つ人たちは少なくない。日本の優れた文化を求めて世界中から広く人材が集まるように工夫してもらいたい。彼らは日本文化を世界に広める役割も果たす。特定の少数の外国から集まりすぎると今回のような事件が起こったり、日本文化の良さが

平成29年12月19日 言論の自由のない国との交流を密にしてはいけない

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言論の自由がない国との交流はほどほどにすべきだ。一国における自由な言論は、一個人における自省と同じ働きをする。 自省的な態度がなく勝手気ままに行動する人間とは、誠実な人間関係を築くことができない。それと同様に、言論の自由のない国とは、道義や理性に基づいた外交関係を維持することができない。持ちつ持たれつの関係を続けることは不可能なのだ。 一国の中に言論の自由があれば、汚い外交はたとえ国益を増大させるとしても、国内で批判する個人が現れる。言論の自由がなければ、そうした批判者は投獄されたり殺害されたりする。その点から観ると、日本の現状は過剰なほどの言論の自由によって特徴づけられる。一部の日本人は国益を無視し、他国の利益を図るために 噓 までいうほどだ。 中国や韓国が日本に対して難癖をつけ、北朝鮮が日本人を人間扱いしないのは、それらの国に言論の自由の存在しないことが一因である。かつては日本の領土と認めていた尖閣諸島を、付近に石油資源がありそうだと判明すると、急遽自国領土だと主張する中国の汚さ。永遠に補償金と謝罪を求め続けるために、慰安婦像を次々と建てようとする韓国の汚さ。拉致被害者の遺骨として別人の骨を送り付ける北朝鮮の汚さ。言論の自由のある国であるならば、こうした汚さを批判する人間が二人や三人くらい現れるはずである。日本の北方領土を支配するロシアも汚い手を使った。 言論の自由のない国とは、ギブ・アンド・テイクの爽やかな外交を展開することができない。たとえば中国や韓国は、日本が与えた「ギブ」の一割の「ギブ」でも、日本に対して返したであろうか。それらの国に誠意が通じると考えるのが間違いである。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 荒井一博のホームページ  http://araikazuhiro.world.coocan.jp/ 荒井一博のブログ   国内向け  https://araikazuhiro.blogspot.jp/   海外向け  https://araikazuhiroen.blogspot.jp/ 荒井一博のツイッター   国内向け  https://twitter.com/araikazuhiro88   海外向け  https://twitter.com/araikazuhiroe88

平成29年12月14日 言論の自由と一橋大学の現実

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 一橋大学(蓼沼宏一学長、佐藤宏・沼上幹・辻琢也副学長)の学園祭である「 KODAIRA 祭」で、百田尚樹氏の登壇予定だった講演会の中止される騒動が本年にあった。一橋大学は「自由の殿堂」と自称しており、自由最重視の大学として自己の地位を築いてきた。  しかしながら、言論の自由の保障されない現実の環境は、「自由の殿堂」の名に値しない。言論の自由は、基本的な自由のなかでも極めて重要なものである。一部の学生だけでなく、一部の教員もその講演に反対したようだ。多くの人たちにとって最も不可解なのは、大学が当事者意識を発揮せず、自分たちとは無関係だとして、問題に堂々と関与しようとしなかったことである。いじめを見て見ぬふりをする中学校などと同じ態度だ。  こんなことで、わが国の指導者となるべき人材を育成したり、わが国の学問的水準を高めたりすることができようか。「自由の殿堂」を標榜しているならば、自由が尊重されていることを自ら実践して模範を示すべきであろう。論文や著書ではどのような綺麗ごとも表明できる。重要なことは、大学として表明したことを自ら実践するとともに、実践できる人間を育成することである。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 荒井一博のホームページ  http://araikazuhiro.world.coocan.jp/ 荒井一博のブログ 国内向け  https://araikazuhiro.blogspot.jp/ 海外向け  https://araikazuhiroen.blogspot.jp/ 荒井一博のツイッター 国内向け  https://twitter.com/araikazuhiro88 海外向け  https://twitter.com/araikazuhiroe88

平成29年12月11日 新自由主義は文化を破壊する

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 日本の経済社会が長期にわたって停滞していることの一因は、新自由主義の跋扈にあると私は考える。新自由主義の影響は多岐にわたるが、ここでは文化的影響に触れてみたい。  新自由主義を含めた自由主義一般には、自由尊重以外の価値がない。人間は法と契約を守って自由に生きればよいとそれは教える。そのため、通常の意味の倫理や道徳や志などの人間の生き方に関係する価値は全く問題とされない。新自由主義は文化と無縁なのである。 このように極端な思想が日本社会を支配するようになったため、他者に対する配慮や社会に対する貢献といった価値(精神)が希薄になってしまった。他人や社会一般はどうでもよく、自分の利益さえ確保できればよい、と多くの人が教えられ考えるようになった。学校でも自由以外の価値を教えることが難しくなった。  しかし、日本社会を欧米社会と比べて際立たせていたのは、まさに他者に対する配慮や社会に対する貢献といった価値の尊重にほかならない。そのような価値の尊重が効率的な組織を生み、安全で住みやすい社会を作り出した。 新自由主義は市場の理論をもつのみで、組織・家庭・社会一般に関する思想を欠いている。社会全体があたかも市場のみでできているように見なす思想である。市場についても、きわめて偏った見方をしている。組織や家庭や社会一般は文化的な要因に強く規定されて機能するが、新自由主義はそれらの存在を無視しているのである。 自由主義の浸透とともに、かつて世界で最も効率的といわれた日本の組織は、活気のないものに変貌してしまった。企業は労働者を単なるインプットと考えるようになり、若者をはじめとして多くの人たちが不安定な仕事に従事している。孤独死の増大は、社会一般における人間関係の希薄化の象徴であろう。大学生に向学心がないのも、使命感の欠如と密接に関係している。 われわれはこのように偏った思想から一刻も早く脱却して、日本の活力を復活させなければならない。 参考文献: 荒井一博『自由だけではなぜいけないのか―経済学を考え直す』講談社選書メチエ、 2009 年。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 荒井一博の英語のブログ   https://araikazuhiroen.blogspot.jp/ 荒井一博のツイッター   https://twitter.c

平成29年12月5日 漢文教育は必要か

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 ごく一部の専門家を除いて、日常生活や仕事において漢文を読むことはないのに、漢文教育は必要なのだろうか。現行の漢文教育の時間は他の教育に使うほうがよいのではないか。 この問題は、今まで真剣に議論されてこなかったように感じる。多くの教育は、行われないより行われたほうが好ましい。しかし地球上の知識はほとんど無限で、教育に使える時間は有限であることを考慮しなければならない。  漢文教育には、学習者の語彙(漢語)を増やしたり、言語(一種の外国語)に対する関心を高めたり、文学的センスを高めたりする効果がある。しかし、そこで使われている古代の思想(論語など)には、納得できるものもあるが、今日の観点からすると批判の余地のあるものも少なくない。にもかかわらず、教室では質疑や討論も行われず、単に理解や暗記が要求されているはずだ。大学入試問題もそうした教育に沿って出題されている。さらに、千年以上も昔の隣国の思想や物語を習った日本人が、今日の隣国に誤ったイメージをもつ可能性もあろう。一部の日本人の隣国に対する異常な寛大さは漢文教育に起因していると推察される。  そこで私は漢文教育に関して次のような提案をしたい。「代表的な漢詩100首を選び、漢文教育としては、それのみをすべての(普通科)高校生に教え、大学入試問題もそれのみを対象とする。」したがって、すべての漢文教科書は同じ100首を記載することになる。ただし、「漢詩100首」とは「五言絶句100首相当」という意味である。漢詩の芸術性は高く、現代人でも学ぶ価値が高いと私は信じる。  こうした教育にはいくつかの利点がある(以下順不同)。第一に、複雑な漢文文法を習得する必要がない。そうした知識は現実社会で不要だ。第二に、大学入試受験生に過度のストレスを与えない。彼らは勇んで100首を暗記するだろう。第三に、代表的な漢詩が多くの日本人の共通な知識となることによって、その一部がさまざまな機会に引用されたり、感情や情景が共有されやすくなったりする。第四に、多くの漢語の習得も可能である。第五に、漢文教育の時間が少なくなって、他の教育にもっと多くの時間が使える。  望むらくは漢詩の作り方も高校で教えてほしいと思う。漢詩には一定の形式があるので、辞書を使いながらそれに従って漢詩を作れるようになれば、多感な高校生なら作詩に挑戦するだろう

平成29年12月2日 魅力的な元号を

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  2019 年 5 月 1 日から新しい元号になると決まった。元号はほとんど毎日使うので、ぜひとも魅力的なものにしてほしい。私は「平成」という元号に、今日まで十分になじめないでいる。温かみが感じられないのだ。それに「平」は「閉」、「成」は「制」を連想させて、不活発な感じを抱かせる。平成は長期不況が続いた時代であった。今の時代に、中国の古典にこだわる必要があるのだろうか。毎日口にして気分が明るくなるような元号を望みたい。そのなかに母音の「 a」 がほしい。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 荒井一博の英語のブログ   https://araikazuhiroen.blogspot.jp/ 荒井一博のホームページ   http://araikazuhiro.world.coocan.jp/