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経済学部は必要なのか(56) 生産の効率性を考えない経済学

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生産の効率性を考えない経済学 新古典派経済学が歪んだ世界観を作り出す第二の理論的理由は、企業の技術を所与と仮定していることにある。ここで技術とは単に工学的なものだけでなく、人間関係や組織のあり方などを含む。生産性に影響するからだ。経済学が何かを所与とみなす場合には、その決まり方を論じない。そのため、新古典派経済学の企業は技術に関して意思決定、特に技術の改善を行わない。企業内の人間関係や組織構造やリーダーシップのあるべき姿を考えないのだ。 経済学を学んだことのない読者にとって、これは驚くべきことではなかろうか。経済で物的な豊かさを直接生み出す要因を二つ挙げるとしたら、生産と交換になろう。企業における生産と市場における交換(売買)だ。そのなかでも生産のほうが重要であると、ほとんどの人が考えるだろう。生産がなければ、交換できるものもずっと限られるからだ。にもかかわらず、この生産活動のあるべき姿が新古典派経済学では考えられていない。それが分析しているのは、実質的に市場における交換だけだ。経済学部の教育もそれに対応している。 このことは次のような「状況証拠」からも確認できよう。経済学部の卒業生に、「経済学を勉強して、組織のなかで人間はどう振る舞うべきと理解したか」と問えば、誰一人としてまともな答えを出せないはずだ(個人的見解は除く)。経済学には解答がないからである。新古典派経済学は自由競争を賛美するが、それは市場に関する見解であって、組織に関するものではない。新古典派経済学は市場に関する理論であって、そこには組織論がないのだ。 既存の経済学が「文化」や「対話」と無関係なのは、この組織論の欠如とも関係する。組織こそが、リーダーシップ、ギブ・アンド・テイク、組織内公共心、利他や感謝などを含む人間関係の重要な場であり、そこでは文化や対話が決定的な役割を果たす。新古典派経済学に支配された経済学部は組織のあり方の解明を避けて、文化や対話を無視する教育をしてきたのである。 新古典派経済学が企業の技術を所与として、生産の効率性を考慮していないことは、強調してもしすぎることがない。同経済学では、企業の努力不足のために生産技術がどれほど劣っていようと、その技術の下で企業が利潤最大化を図り、消費者(労働者)が効用最大化を図るかぎり、資源配分はパレート最適とみなされる。この

経済学部は必要なのか(55) 労働市場を流動化することの誤り

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労働市場を流動化することの誤り 流動性重視の労働政策には多くの重大問題があるため、ここで四つを選び出して論じたい。一番目は、失職したときに、以前と同等な仕事が簡単に見つからないことである。現実経済は新古典派経済学の世界と違って、コンビニで弁当を購入するようには仕事が手に入らない。求職者の能力や性格には多様性があるため、企業は採用に際して慎重だ。求職者も募集企業の仕事内容や雰囲気を正確に知りにくい。つまり、労働市場では情報収集に多大な取引費用がかかる。 さらに、ほとんどの企業はすでに必要な労働者を雇用しているので、失業者が企業を突然訪問して自分を売り込んでも、採用されることはほぼ不可能だろう。彼の能力がかなり高くても、すでに雇用している労働者を解雇して彼を雇ってくれることはありえない。労働市場の取引費用が高いため、企業が毎日何百人もの求職者を相手にそうすることは不可能なのだ(新古典派経済学の世界ではこれが可能)。 二番目の重大問題は、流動的な労働市場は前述のような雇用不安を招き、景気を悪化させることである。雇用に関する将来不安は貯蓄を増やし消費を減らすので、景気の悪化を生む。すると就職難や解雇が多くなり、将来不安がさらに高まるはずだ。そのために消費がさらに減る、という悪循環に陥る。日本経済が長期停滞から脱出できない基本的な原因の一つはここにあるといえよう。多くの経済学者は取引費用のない新古典派経済学に頭脳を支配されて、こうしたメカニズムが頭に浮かんでこなかった。厚生経済学の第一命題の悪影響がいかに大きいことか。 三番目の重大問題は、企業が労働者を容易に解雇できる制度をつくると、前項で触れたように、労働者の勤労意欲が大きく減退することである。明日にも解雇されるかもしれない労働者が、企業のために全力で仕事をしようか。仕事について四六時中考え、新しいアイデアを雇用企業に提案するだろうか。新古典派経済学は労働も原材料や機械と同等な投入物とみなしており、雇用される条件によって仕事ぶりの変わることがない、と単純に仮定しているにすぎない。厚生経済学の第一命題は、こうした非現実的な仮定を基礎としている。 四番目の重大問題は、先にも触れたが、労働市場が流動化して企業の成員が頻繁に入れ替わるようになると、成員間の協力が実現しにくくなることだ(荒井、一九九七・二〇〇

経済学部は必要なのか(54) 取引費用が生み出す現象

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取引費用が生み出す現象  経済学者の思考に対する新古典派経済学の影響は甚大だ。前述のように彼らの多くには、現実離れした理論を使って、現実の経済問題に取り組もうとする顕著な傾向がある。彼らが政策提言をするときに判断基準としているのは、新古典派経済学なのだ。経済学を十分に学んだことのない人たちには、こうした提言は理路整然としていて反論の余地がないように見えよう。自由貿易論も産業の調整費用を無視した欠陥理論なのに、理路整然と見えるのと似ている。しかし、経済理論の仮定を少し現実的にすると、政策提言の内容もかなり変わる可能性が高い。 一九九〇年代以降は新自由主義の影響により流動的な労働市場が好ましいとみなされたが、筆者はこれを強く批判してきた。労働市場と結婚市場には強い類似性があるので、最初に後者を検討して問題に関する直感的理解を得ることにしよう。新自由主義の跋扈によって日本の離婚率も増えている。しかし、流動的な結婚市場は深刻な問題を生み出す。  結婚市場が流動化して離婚率が高くなると、子供の養育・教育がおろそかになろう。シングルマザーやシングルファーザーが多数発生して、子供に十分な時間や資金を配分できなくなる。それどころか、離婚を予想して子供に対する教育投資を少なくするかもしれない。そのため、能力や倫理の面で質の高い人間が育たなくなる。子供は特定の夫婦にとって特に価値の高い「特殊資本」なのだ。  流動的な結婚市場は夫婦の精神衛生や厚生にも好ましくないであろう。明日にも離婚があると考える個人が、安心して生活できようか。相手のために尽くしたいとも思わないだろう。共働きの場合は仕事優先になり、勤務先が遠く離れて別居せざるをえないかもしれない。  多大な取引費用も発生する。いつ離婚されるかもしれないので、夫婦のそれぞれが、次の結婚相手の探索にエネルギーを使わざるをえない。さらに、離婚の精神的費用は甚大で、再婚相手も簡単には見つからないだろう。流動的な結婚市場は取引費用として多大な精神的・時間的・金銭的費用を生み出す。  こうした問題を避けるためには、ある程度離婚しづらい環境を整備しておくことが必要だ。簡単には離婚できないような法制度を設定し、離婚に対して金銭的な制裁(慰謝料)を課し、社会的にも安易な離婚は好ましくないという通念を醸成しておく必要がある。結

経済学部は必要なのか(53)  破壊された日本の組織と労働市場

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破壊された日本の組織と労働市場 取引費用の無視は一国の制度も誤らせる。一九九〇年代以降、新自由主義が不況下の日本社会を支配するようになって、多くの学者・経営者が流動的な労働市場を推奨・推進し、国の制度を変えていった。高い雇用保障や終身雇用制は、労働者を特定企業に縛り付け、(特に企業の)自由を制限する非効率な制度だ、というのが彼らの行った主張だ。 こうした論理を使う経済学者は、取引費用の存在しない新古典派経済学を頭に描いて、現実経済のための制度を推奨したにすぎない。亜熱帯の世界を頭に描いて、寒帯に住む人間にアドバイスをするのに似ている。その結果、世界の人たちが羨望の目で見ていた日本の効率的な組織は破壊され、すさんだ職場が現れた(河合・高橋・永田・渡部、二〇〇八)。労働市場の流動化は社会全体の雰囲気も変え、九〇年代に日本社会の劣化が加速度的に進んだ。 これらの経済学者自身は大学で雇用の保障された職に就きながら、他者に流動的な労働市場を渡り歩くように勧めていたのである。実際に失職して職探しをすることは、どんなに辛いことか。新古典派経済学のような競争的労働市場が現実に存在して、直ちに職が見つかる、というわけではない。新自由主義の影響もあって、最近の大学では若い研究者に任期制を適用する場合が増えているが、彼らは雇用保障を喉から手が出るほど望んでいるはずである。雇用保障がなければ生活が安定しないし、解雇の可能性と新しい仕事先のことを常に考えていなければならない。そのため今日では、研究者を志望する優秀な学生が少なくなっているといわれる。 雇用の流動化を推奨することは、結婚の流動化を推奨するのと似ている。よりよい相手を求めて再婚を繰り返したり、経済的に苦しくなったら離婚したりするのがよいとされるようなものだ。しかし結婚が流動化したとき、だれが責任をもって次世代を育てるのか。配偶者が互いに新しい結婚相手を探すのに熱中していて、精神的に安定した結婚生活など送れるはずがない。結婚は原則として一生に一回だけするのが正常だろう。結婚を繰り返すと、一般に本人が多大な費用を負担するだけでなく、配偶者や子供に甚大な損害を与えることになる。経済学用語を使えば、繰り返される再婚にともなう取引費用は計り知れない。できるだけ結婚を崩壊させないような制度を人類がつくり上げてきたのはそのた

経済学部は必要なのか(52) 経済学の世界観はなぜ歪んでいるのか

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経済学の世界観はなぜ歪んでいるのか  新古典派経済学が歪んだ世界観を作り出すのはなぜだろうか。荒井(二〇〇二、二〇〇九)などで論じたように理由は多々あるが、ここでは三つの理論的理由に絞って要点を述べることにする。それらは経済学部の教育でもまず触れられない(宗教は自らの欠陥を指摘しないものだ)。  第一の理論的理由は、新古典派経済学が「取引費用」の存在を無視していることである。取引費用とは、取引する財の価格以外にかかる費用にほかならない。スーパーで買い物をするには、ガソリンや時間の費用がかかろう。職探しをするときは、情報収集費用や交通費がかかる。企業が労働者を採用する際には、募集・試験・オリエンテーションの費用がかかるはずだ。企業が大型プラントを発注するとなると、詳細な契約書を作成する多額の費用がかかるに違いない。新古典派経済学はこうしたすべての取引費用をゼロと仮定して構築された経済学なのだ。  この仮定のために、新古典派経済学では、すべての市場取引が「完備契約」に基づいて行われることになる。完備契約とは、将来起こりうるすべての場合に関する対処法が明記された契約にほかならない。通常、将来起こりうる事象は自然・社会現象に関して無数にありうる。雇用契約を例にあげれば、風水害が起きたり、協同作業者の仕事が遅れたり、上司が不適切な指示をしたりすることがあろう。これらだけでも多様な種類や程度があるので、ほとんど無数の事象になる。完備契約では、それらのすべての事象に対して、どのように対処するかが詳細に決められているのだ。そうした契約をするためには天文学的な費用がかかるが、新古典派経済学では仮定により取引費用がゼロなので、無費用で完備契約が結べるのである。  新古典派経済学ではすべての取引が完備契約で行われるので、取引後に発生したトラブルによって悩むということがない。何が生起しても「想定内」であり、対処法は合意済みなのである。しかし、現実経済では完備契約を締結することなど不可能だ。労働者が会社で仕事をする場合、仕事の仕方に関して詳細な契約などできようか。何月何日の何時何分に、どのような仕事をどのように実行するか、また違反をしたら(違反の仕方も多様)どう対処するかなどを、詳細に契約できるはずがない。そんな契約をしていたら仕事をする時間がなくなってしまう。 自由