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平成30年2月25日 禁煙政策はどうあるべきか(2)

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 喫煙の自由が個人の権利になりえない重要な要因がもう一つある。それは嗜癖という恐ろしい現象だ。一年も喫煙を続けていると、タバコの消費をやめようと思ってもやめられなくなる。体の不調などのさまざまな理由で禁煙したいという意思はあるのに、体が禁断症状を生み出し喫煙を要求するのだ。これが嗜癖の重要な特徴にほかならない。多くの喫煙者が禁煙したいと思っているにもかかわらず、それに成功しない理由は、嗜癖という現象のためである。  論理的に考えてみると、嗜癖は個人の自由を侵害するといえよう。タバコの消費をしたくないと思う個人が、その意思に反してタバコの消費を強要される状態に置かれているからだ。タバコは吸いたくないと思っても、体の中に生まれた嗜癖という「強制力」がその希望の実現を阻止するのである。これは自由が制約されている状態にほかならない。工場の吐き出す煤煙を逃れて清浄な空気を吸いたいと思っても、それができない状態と同じである。タバコを消費し続けると、タバコを消費しない自由が侵害されることになってしまうのだ。  多くの麻薬が同様な性質を持つ。そのため、強い嗜癖性を有する物質は法的に規制することが正当なのである。つまり、消費を禁止すべきなのだ。消費を個人の自由に任せたら、大多数の個人が嗜癖に陥り、立ち直ることができなくなり、社会は崩壊してしまう。自由主義者はあまり認めたくないようであるが、人間は強い嗜癖に打ち勝てるほど合理的あるいは強靭ではないのだ。  今日ではほとんどの国で麻薬の取引や消費が禁止されている。それと同様にタバコの消費も禁止されるのが好ましい。私もかつては喫煙していたが、禁煙したいと長年考えて失敗を繰り返した苦い経験がある。消費をやめたいと思ってもやめるのがきわめて困難な消費財は元々供給しないのが社会的に好ましい。個人の判断で消費を決めさせるという考えはきわめて論拠薄弱なのである。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 連絡先  kazuhiro.arai888@gmail.com 荒井一博のホームページ  http://araikazuhiro.world.coocan.jp/ 荒井一博のブログ 国内向け  https://araikazuhiro.blogspot.jp/ 海外向け  https://araikazuhir

平成30年2月18日 禁煙政策はどうあるべきか(1)

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 東京五輪を機に公共の場での全面禁煙を実現しようという動きが、現段階では腰砕けになりそうだ。喫煙や禁煙をどう考えたらよいかについて、要点を記してみたい。基本的に重要なことは、喫煙が個人の自由として主張できる完全に正当な権利になりえないことである。  タバコの煙が漂う空間では、ほとんどの非喫煙者が強い不快感を抱く。一刻でも早くそこから逃れたいと思うだろう。そのような場で、ディナーを楽しみたいとか、午後のひとときを友人とティーでくつろぎたいと思う非喫煙者はほぼゼロである。実際のところ、喫煙者さえ他人の出したタバコの煙に対しては不快感を抱く。 経済学的に表現すれば、喫煙することによってタバコの煙を周囲の人に吸わせる喫煙者は、外部不経済を生み出しているといえる。換言すれば、喫煙者は空間を共有する人たちに不当な害を与えているのだ。これは全く正当化できない。周囲の人たちに汚水をまき散らすのを正当化できないのと同様である。  自動車が排気ガスを出すのは許容されているのに、なぜ喫煙は許容されないのか、と主張する喫煙者がいるかもしれない。厳密にいうと自動車の排気ガスも問題ではあるが、レストラン内で抱く排気ガスに対する不快感はほとんど無視できるのに、タバコの煙に対する不快感は耐え難いのである。タバコの煙は許容限度を超えているともいえよう。  以上の理由だけでも、公共の場における喫煙は規制されるべきである。さらに受動喫煙は多種類の疾病を引き起こす可能性も無視できない。特に、妊婦や特殊な体質の人たちには好ましくない影響が強く現れるであろう。  飲食店に入ろうとしてドアを開けたときにタバコの煙の臭いがすると、日本は先進国でないのかと私は感じる。日本は素晴らしい国だと外国人に感じてもらうためにも、飲食店を含む公共の場では全面禁煙にすべきであろう。禁煙に反対の論者もいるので、その論拠の問題点に後ほど触れてみたい。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 連絡先  kazuhiro.arai888@gmail.com 荒井一博のホームページ  http://araikazuhiro.world.coocan.jp/ 荒井一博のブログ 海外向け  https://araikazuhiroen.blogspot.jp/ 荒井一博のツイッター 国内向

平成30年2月11日 日本は衰退している(3)ある経済学者の生き方

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 よく名の知られた経済学者の生き方を知って、このような経済学者が持て囃される国は衰退するだろうな、とずっと以前から感じていた。概略を記しておきたい。  彼は一般向けの著書を多く出し、マスメディアにも頻繁に登場した。多大な所得を得たようだ。しかし、専門分野における先端的研究はしていたように見えず、査読付きの英語論文は一つもないようである。 さらに、彼の講義はたいへんいい加減で、ほとんど準備をしてきた形跡がなかったらしい。出欠調査に長い時間を使い、講義中に分からなくなって行き詰まると、十分以上も立ち止まって考えていたという。マスメディアなどの仕事が大切で、講義などどうでもいいと考えていたのだろう。  教授会では自分の意見を述べず、ずっと沈黙していたと多くの人が認める。簡単な事実の報告などはしたのかもしれないが、重要なのは重大問題が発生したり議論が紛糾したりしたときに正々堂々と自分の意見を表明することだ。だが、教授会で多数派と異なる意見を表明することはかなり危険である。睨まれて不利益を被る可能性が高い。彼はこれを避けたのだ。著書では正義などの綺麗ごとを論じても、自分からは実践しなかったといえよう。  このように私利追求的で他者や日本全体のことを案じない経済学者が、実際にはわが国のメディアで持て囃されているのだ。日本が衰退しても当然と感じる。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 連絡先  kazuhiro.arai888@gmail.com 荒井一博のホームページ  http://araikazuhiro.world.coocan.jp/ 荒井一博のブログ 国内向け  https://araikazuhiro.blogspot.jp/ 海外向け  https://araikazuhiroen.blogspot.jp/ 荒井一博のツイッター 国内向け  https://twitter.com/araikazuhiro88 海外向け  https://twitter.com/araikazuhiroe88

平成30年2月4日 誰が校則を決めるべきか

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 2月1日の夕刻に憲法と校則に関する NHK のテレビ放送があった。簡単にいうと、校則を決めるのは誰であるべきかという問題に関する放送である。その放送を視聴して、校則は生徒が話し合って決めるべきだ、と考えるようになった人が多かったのではなかろうか。そう考えるよう放送が誘導しているように、私には感じられた。以下では、生徒が校則を決めるのは誤りであることを論じたい。  校則やルールを含む制度一般は、人間の持つ価値を陽表化した(目に見える形にした)ものである。そのため、そこには文化が反映される。優れた制度は文化の優れた面を反映したもので、幸福な社会を生み出す。経済学的に表現すれば効率的な社会を生み出すといえる。  不完全な人間を多少とも完全に近づけるための教育機関が学校であるから、不完全とみなされている人間が優れた文化を内面化していると考えることは、論理的な矛盾だ。そのため、不完全とみなされている生徒が校則を決めることは誤りなのである。校則を最終的に決めるのは学校でなければならない。教師は生徒よりも人間としての完成度が高いはずで、優れた文化が何であるかも知っているはずである。そして、学校はその生徒の教育に対して全面的な責任を負っているはずだ。そうしたことが教師や学校の条件であるからである。  もちろん、生徒が校則に関して希望を表明することは問題ない。校則のなかには、変えたほうがよいものもあろうし、少し変えるだけで実質的な負の効果を生まずに生徒の幸福を大きく高めるものもあろう。学校は生徒の意見を考慮して校則を決めることができる。  しかし、学校が生徒に譲歩すべきでない点も少なくない。学校はどのような髪型も自由だとすることができようか。成人である会社員でも髪型の自由度は常識の範囲内とされるであろう。服装も同様だ。学校は、次の時代を背負う日本人がどのような文化を内面化しなければならないかを考慮して、校則を決めなければならない。そして校則に関して生徒や保護者と意見を異にするときは、論理明快に学校の考えを説明すべきである。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 荒井一博のホームページ  http://araikazuhiro.world.coocan.jp/ 荒井一博のブログ 国内向け  https://araikazuhiro.blogspot.j