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経済学部は必要なのか(47) 経済学を構成する諸学

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第五章 「科学」としての経済学の問題点 経済学を構成する諸学 「文系学部廃止論」は、経済学・法学・歴史学・英文学などの専門的知識の教育をする(国立大学の)学部・学科が不要だとする考え方であろう。文系ではそれらの専門的な教育がなされているからだ。本章では専門的知識としての経済学を人社系分野の中から選び出し、その学問内容や教育が社会に役立つのかを詳しく検討してみたい。役立たないのであれば、経済学部に存在意義はなく、廃止したほうがよいことになろう。 今日の経済学は、経済理論と経済史と計量経済学に大きく分類でき、それぞれに純理論と応用がある。ただし、ほとんどすべての経済学部で、経済史はウエイトがかなり小さくなっている上に、学生の人気も高くない。計量経済学は経済分析に適するように開発された数理統計学的手法であるが、学部学生でそれを中心に勉強する者は少数だ。 そのため経済学部生の大部分は、経済理論の勉強をしている。一九六〇年代まで、わが国の多くの大学ではマルクス経済学の理論が強い影響力をもっていた。しかしその影響力は、七〇年ごろを境にして徐々に、そしてソ連の崩壊後は急激に低下したといえよう。今日の経済学全体では、歴史分析にその影響が多少見られる程度にすぎない。数十年間にわたってわが国の経済学を牛耳ったマルクス経済学は、学説史のなかに居場所を移そうとしている。 現時点で世界の経済学を支配しているのは、ときに「近代経済学」と呼ばれる学問であるが、それは異質なものを含む。新古典派経済学・ケインズ経済学・制度学派経済学などだ。世界の経済学部で教えられる経済学のほとんどは、このなかの新古典派経済学を主体としたミクロ経済学と、ケインズ経済学を主体としたマクロ経済学にほかならない。ミクロ経済学は、消費者・企業などの各経済主体の行動をまず論じ、それを積み上げて市場や経済全体を分析する分野である。他方、マクロ経済学は、GDP・失業率・国際収支のような集計された量を始めから扱う。 なお、経済学の各経済主体は独立して意思決定を行うとされるため個人とも呼ばれるが、一個人は必ずしも一人の人間を意味しない。それは分割できない単位 (individual) という意味で、家計(消費者)のように複数人から構成されることもある。一企業も個人とみなされてよい。 学部学生にはマク

経済学部は必要なのか(46) 日本の組織における批判精神

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日本の組織における批判精神  プロローグで取り上げた日本学術会議幹事会の声明文を思い出してみよう。そこでは「現在の人間と社会のあり方を相対化し批判的に省察する、人文・社会科学の独自の役割」が強調されていた。しかし、そのような役割を引き受けた人間は、経済学部にまずいないと私には思われる。経済学部の存在意義に大きな疑問を感じざるをえない。 学生にとっては、自分の就職が他のことより何十倍も重要だ。研究者を目指す大学院生にとってさえ、社会は経済モデルを適用する対象でしかなく、彼らは右のごとき批判的な思考や行動を避ける。教員は批判的な省察をしないどころか、派閥を形成して学部の意思決定を実質的にそこで行う。それを批判する少数者には執拗な嫌がらせをする。それらを黙認する教員も多い。日本の大学で「長」と名の付くポジションを手に入れるのは、派閥のなかで中心的な役割を演じる教員が多いはずだ。「多様な見解を持つ他者との対話」などは、まったくする気もない。 第三章では、人文社会科学が育むとされる公共心をある程度詳しく論じた。しかし、ここまでにみてきたように、人社系の主要分野といえる経済学部には、公共心を発揮する教員がほとんどいない。ごく一部の教員にはそうする者もいるであろうが、非公式集団が数の論理で抑えつける。研究では議論に多大な労力を投入するのに、学内の公式の会議ではほとんど議論しない。活発な「議論」があるのは心地よい非公式集団のなかだけだ。「自分たちはパンのための学問を学んでいるのではないという自負」を文学部生はもつと竹内(二〇〇三)は指摘する。しかし、経済学部に所属する多くの文学部出身の教員(語学教員など)にも、主流派を批判する者はまず見られない。 佐和(二〇一五)は「民主主義国家では、企業であれ官庁であれ、旺盛な批判精神を有する人材を求める。」というが、旺盛な批判精神のある人間は、日本の企業や官庁だけでなく大学でも、問題児というレッテルを貼られ、抑圧ないしは排除されてしまうのが普通だろう。イエスマンで周囲を固めることが、日本のみならず欧米の経営者にも多いようだ。このことはエンロン事件に関連して先に触れた。批判しないのが出世の必要条件といえよう。旺盛な批判精神の持ち主は、現実の組織で重要なポジションに就けないのである。能力が顕著に高くなくても、角を立てずに黙ってい

経済学部は必要なのか(45) 経済学部の教授会カースト

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経済学部の教授会カースト  有力派閥の教員にとって大学は天国だ。多くのことが自分たちの思い通りに決まり、不都合なことや不愉快なことはまず起こらない。たとえ彼らが何かで失敗して、大きな不名誉を被りそうになったり、地位が危うくなったりしても、助けてくれる人がいる。学部長がもみ消したり、他の派閥メンバーが教授会で発言して助けてくれたりするのだ。違法行為が発覚しても助ける人がいるだろう。  右では有力グループの特徴を大雑把に描写したが、実際にはその中に多重構造が見られることもある。順に学部長をするような上層部と、それは諦めている中下層部だ。中層部の教員は評議員になったり目立つ委員会の委員になったりする。彼らは上層部に保護されており、研究業績が悪くとも多様な便宜を享受でき、快適な教員生活を送ることが可能だ。下層部の教員は協力者で、酷い扱いを受けないだけでなく、ときには有利なオファーも受ける。  他方、その他大勢の教員にとって、大学はあまり楽しい所といえない。ほとんどのことは彼らの関与しない所で決まってしまい、学部の意思決定に彼らの意向を反映させることはまず不可能だ。一部の批判的な教員にとっては、毎日が辛い日々になろう。特に、教授会などで彼らに不利な決定がなされるときは、たいへん辛い思いをするはずだ。  このような教授会の生態は、中・高等学校の「スクール・カースト」とよく似ている。スクール・カーストの最も高いグループに所属していると、主張したことは通り、充実した楽しい学校生活が送れるらしい。「強めの人たちはめちゃめちゃ楽しかったと思うよ。だって何でも自分の思うとおりに進むんだから。」といわれる(鈴木、二〇一二)。上位グループのメンバーには結束力があり、クラスに影響力があるため、下位グループの生徒は彼らに恐怖心を抱くようだ。結束力や影響力を背景とする前者の権力を恐れるため、後者は嫌悪感を表立って出さないという。  スクール・カーストと聞けば、多くの人たちが今日の学校の異様さと、日本の将来に対する不安とを感じるだろう。校長や教師陣が何とかしないのだろうかと思うはずである。ところが、今日の大学の教授会自体がカースト構造になっているのだ。中高の生徒どころか、日本の教育をリードすべき大学教員が、社会の厚生を研究する研究者が、そしてメディアで日本の進むべき道を説く啓

経済学部は必要なのか(44) 派閥の力学

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派閥の力学 前回みた派閥はどう形成され策動するのだろうか。日本の大学の教授会には、何人かが同調すると意見が通りやすいという性質が見られる(必ずしも多数決原理だけの問題ではない)。そのため、自分の意見を通して自己利益を確保したいと強く考える教員は、考え方の似た他の教員と結託する誘因をもつ。こうして派閥が形成される。これらの教員は私利追求の強い意志を有するので、ある程度の研究業績を挙げていることが多い。学部長などは、このようにしてできた大きな派閥の有力メンバーが順番になる。派閥成員は根本的に強欲なのだ。 派閥は大きいほど数の力を発揮できるが、大きすぎると個々の成員に配分される利益が小さくなるので、有力な教員数人を含む適度なサイズになる。学部長が魅力的な地位である学部において、大グループの全成員が学部長になることは不可能だ。なお、多くの学部では派閥がすでに形成されているので、新規に採用された教員の一部は(暗黙の)紹介によって加入するが、当然ながら退職する者もいる。普通はこのようにして最適規模の派閥が維持されるといえよう。  その他の静かな教員は非公式集団を形成することなく、自分の意見もほとんど表明しないで有力グループの方針に従う。彼らのなかには、口達者な者や非公式集団を作るほど活動的な者がいない。彼らは有力派閥を嫌っているが、自ら表立って反対する勇気をもたず、大人しくしてあまり酷く扱われないことを期待している。派閥が学部全体の二~三割の教員しか占めないのに全体を牛耳ることができるのは、その他のほとんどの教員がそれを黙認しているからだ。  非主流派が形成・維持される場合も、主流派と同じようになされる。しかし、そこには学部長職などの大きな利益があまり回ってこない(非主流派がかなり大きくなると、主流派とギブ・アンド・テイクの関係を築くこともありうる)。ただ、非主流派のメンバーはある程度の人数で固まっているので、並の扱いを受けることができ、スケープゴートにされることがない。  有力派閥にとって最も厄介なのは、その方針や策動を公の場で批判する少数の教員である。こうした教員は、派閥の一員となったり不正を黙認したりすることを潔しとしないで、自己利益を犠牲にして組織全体の観点から批判する傾向があろう。なぜなら批判すれば嫌がらせを受けるため、そうするよりは大人しい教