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経済学部は必要なのか(5) 社会的要請や便益の内容

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社会的要請や便益の内容  ここまでの議論で最も重要となる概念は「社会的要請」や「役に立つこと」で、経済学的には「教育の便益」である。「便益」がなくても「要請」されることはありうるので、厳密にいうと相違はあるが、通常これらは同義といえよう。ならば、文科省の表明する「社会的要請」は具体的に何を意味しているのだろうか。どんな分野がそれに応えられるのか。 前項で触れたような「卒業後すぐに役立つ分野」が話題になることもある。個人が大学を卒業して就職すると、仕事ですぐに使える知識や技能を付与する分野だ。すぐに金銭的な私的便益を生み出す分野である。「即戦力」や「実学」や「就職予備校」に関連する分野といえよう。  「卒業後すぐに役立つ」教育については賛否両論あり後でも論ずるが、ここでは反対意見をまず示しておきたい。二〇一五年七月二九日の『日本経済新聞』社説は、文科大臣の通知に対して、「こんどの要請は『すぐに役に立たない分野は廃止を』と解釈できる不用意なものだ」としている。批判や誤解を恐れた産業界からも意見が表明された。同年九月九日の経団連「国立大学改革に関する考え方」は、「今回の通知は即戦力を有する人材を求める産業界の意向を受けたものであるとの見方があるが、産業界の求める人材像は、その対極にある」としている。 社会的要請の高い分野は金になる教育を行う分野である、と理解されるのが普通であろう。私的または社会的な金銭的便益の大きい分野である。しかし、金になる教育を行うことのみが大学の使命ではないと考える大学人は多いため、彼らも文科大臣の通知を強く批判するはずだ。この点に関する文科省の真意は必ずしも明確でない。文科省は、社会的要請として非金銭的な便益も真剣に考えているのであろうか。 社会的要請の高い分野としては、多くの人が工学・農学・医学などの理系分野を思い浮かべる可能性がある。文部科学大臣通知も理系学部の廃止などは求めていない。そのためそれを、「文系学部を廃止して社会的要請の高い理系学部に転換するためのメッセージ」と解釈した人も多いようだ。同様な内容は海外にも発信された。そうした転換論に対しても多くの批判が出されている。  通知に対する反発が強かったため、文科省は釈明を繰り返した。高等教育局長が同年九月一八日に日本学術会議幹事会で配布した「新時代を見据えた国

経済学部は必要なのか(4) 日本学術会議幹事会の反論

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日本学術会議幹事会の反論  文部科学大臣通知に対して、日本学術会議幹事会が同年七月二三日に批判的な声明を発表した。そこには六つの論点があり、最初の三つがここでは特に重要になると考えられる。第四の論点は教員養成教育に関すること、第五の論点は人社系の教員・研究者数維持に関すること、第六の論点は人社系教員が社会に対して自身の役割を十分に説明してこなかったことであるからだ。  同声明が最も重視していると推察される第一の論点から検討してみよう。それは、人文・社会科学に「現在の人間と社会のあり方を相対化し批判的に省察する」独自の役割があると指摘する。また、「自然科学と人文・社会科学の連携」による「総合的な知」の形成も必要だと説く。その役割に加えて、人文・社会科学には「自然科学との連携によってわが国と世界が抱える今日的課題解決に向かうという役割が託されている」という。 そして、「自然・人間・社会に関して深くバランスの取れた知を蓄積・継承し、新たに生み出していくことは、知的・文化的に豊かな社会を構築し次世代に引き継いでいくことに貢献すべき科学者にとって、責任ある課題であることを認識しなければならない」と諭す。これらを踏まえて、「人文・社会科学のみをことさらに取り出して『組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換』を求めることには大きな疑問がある」と主張する。  この論点で注目すべきは、主役となっているのが科学者であって大学生でないことだ。そのため、バランスの取れた知を蓄積し継承することなどは、ここで学生に要求されていない。つまり、科学者が右記のような課題を担えれば問題はなく、この点に関するかぎり、声明は人社系学部廃止論に対する積極的な反論になっていないのである。  第二の論点は「社会的要請」に関するものだ。そこでは、大学には「目には見えにくくても、長期的な視野に立って知を継承し、多様性を支え、創造性の基盤を養う」要請もあると説明している。そしてそれを見落とすと、「大学は社会の知的な豊かさを支え、経済・社会・文化的活動を含め、より広く社会を担う豊富な人材を送り出すという基本的な役割を失うことになりかねない」と警鐘を鳴らす。長期的な視野に立つ人社系の研究と教育が、多様性や創造性の基盤の一部になる、とみなされているようだ。  しばしば「すぐに役立つ教育」を文科省

平成30年3月25日 日本は衰退している(5)慶應義塾塾長の主要論文

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 大学は真理を追究し文化を発信する機関である。近年、わが国の主要大学の国際的地位が低下し、一部の国際評価でアジアの主要大学よりも低評価になっている。日本の衰退の原因は大学の現状にもあると私は強く考える。  こうした状況の下で、慶応義塾大学の前学長(塾長)の「主要論文」に疑問を感じたので、ここにその概略を記して、ご意見やご批判を仰ぎたい。なお、慶応義塾大学長は社会に大きな影響力を持っており、メディアにも頻繁に露出する可能性のある地位であり、以下のような検討は社会的価値を有すると考える。  慶應義塾大学の前塾長の清家篤氏には、彼の HP * を見る限り、査読付きの本格的英語論文がないようだ。その HP に「主要著作・論文」が記されており、論文としては英語論文が 2 本、著書としては日本語著書が 8 冊示されている。 * http://www.fbc.keio.ac.jp/teacher/staff_list/seikeatsushi/index.html 2 本の英語論文のうちの 2 番目のもの ** は査読付きの経済学論文でなく、世界の大学管理者などによる大学論を編集した書籍に収められている。その論文には 9 個の参考文献が挙げられていて、そのうちの 5 個が福沢諭吉のもの、 1 個が小泉信三のもの、 2 個が清家氏自身の論文、 1 個が他者の論文であって、この参考文献を見るだけでも、通常の学術論文でないことがわかる。 ** file:///C:/Users/NEC-PCuser/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/U8RIEQ65/2015%20Glion%20X%20University%20Priorities%20and%20Constraints.pdf 2 本の英語論文のうちの1番目のもの *** は一応査読付きのようだが、経済学では無名の学際誌に掲載されており、論文内容自体も素人向けの説明にすぎない。そこには、ある審議会で自身が座長を務めたこと (The report of the National Council on Social Security Reform, which I chaired, recommended increasing the social se

経済学部は必要なのか(3) 文科大臣通知と教育の便益

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プロローグ 文系学部廃止論争 文科大臣通知と教育の便益  人文社会系学部は役に立たないので廃止すべきだ。このような強い勧告が文科省から発せられた、と多くの人たちが感じるようになった。当然のことながら、文系教員などは強い反論を提起している。この論争で今のところ問題となっているのは国立大学の人社系学部であるが、そのありようは将来の日本の大学教育や国力に大きく影響を与えるだろう。  論争を見てまず感じるのは、「役に立たない」とか「役に立つ」という表現の意味が不明なことである。「役に立つ」とは教育を受ける個人に役立つことなのか、それとも社会全体に役立つことなのか。論争と関係するいくつかの文献を後で引用するが、いずれもこの点を明確にしていない。また、「役に立つ」のは金銭的な利益を生むことなのか、それとも精神的な利益を含むのか。この点も曖昧だ。さらに、「役に立つ」とされるとき、その利益の実現に一学年当たり何万人もの学生を教育するのが適切なのか、それとも数千人程度ですむのかも明らかにされていない。数千人程度ですむならば、ほとんどの国立大学で人社系学部を廃止したほうがよいことになる。 本評論は『教育の経済学』(荒井、一九九五)にならって、こうした区別を必要に応じて明確にしながら論を展開したい。教育の経済学は、教育を受ける個人に発生する利益を「私的便益」、その個人を含む社会全体に発生する利益を「社会的便益」と呼ぶ。それぞれには「金銭的便益」と「非金銭的便益(精神的便益)」がありうる。 非金銭的便益は経済学や今回のような論争で言及されることが少ないので、説明を付加しておきたい。社会が平穏で安定していること、他者一般と気持ちよく接することができること、社会のリーダーが頼もしいこと、日本人が世界で尊敬されることなどは、われわれの精神状態を良好にする。そのため、教育がそれらに貢献すれば、非金銭的便益をもつといえるのだ。 これら四種類の便益は、卒業後すぐに発生するかもしれないし、時間がかなり経過してから発生するかもしれない。厳密いうと、教育には個人が在学中に享受する便益もあり、それは教育における「現在消費の便益」と呼ばれる(卒業後に発生する便益は「投資的便益」ないしは「収益」)。たとえばフランス語学習が在学中に生み出す楽しさは、現在消費の便益にほかならない。

経済学部は必要なのか(2) はしがき

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経済学部は必要なのか 「文系学部廃止論」と大学の将来 荒井一博 はしがき こんなことを教えても学生の将来に役立つのだろうか。少なからざる経済学教師が、教室でときにこう感じているであろう。経済学のこの命題は深刻な誤解を与えるため、むしろ教えないほうがいいのではないか。こう思いながらも、教科書に記されていて資格試験にも出題されるので、やむなく教えている教師がいるかもしれない。 企業や公的機関で働く経済学部卒業者の多くは、大学で学んだ経済学があまり役立たないと感じているようである。思考力を鍛えるという点では、どんな学問もまったく無益といえない。しかし何にどの程度役立つかが問題で、経済学の勉強はほどほどにして、他の勉強をするほうが生涯全体では好ましいということはありえよう。それどころか、経済学がそれを学ぶ者の世界観をひどく歪め、彼らの行動を社会全体から見ると不適切にすることもありうるのだ。  このように、経済学部で学んだことのある日本人ならば、少なくとも頭の片隅に「経済学部は必要なのか」という疑問を抱いている者が多い、と推察される。その疑問をより正確に表現すれば、「経済学部で今日行われている教育は本当に有用なのか」となろう。人文社会系学部の存在意義に疑念が抱かれている現在、本評論はこの疑念についてある程度一般的に論じるとともに、人社系のなかから経済学部を選び出して、その存在意義を詳しく検討してみたい。  経済学部を特別な検討対象にする理由はいくつかある。第一に、文系学部は原理的に多様で、特に経済学部は独特の主張をする傾向が強い。第二に、経済学部は人社系のなかでも法学部と並ぶ代表的な学部で所属学生数が多い。第三に、経済学は人社系分野のなかで学問的体系化が相対的に進んでおり、その意味でも法学とともに同分野を代表している。第四に、前述のように、経済学の教育や研究の有用性が明白でない。経済学が普遍の真理を追究する科学なのかも検討に値する。第五に、「文系学部廃止論」自体が、元をただせば経済学部に発生した「新自由主義」に由来するため、同学部やその研究の特徴を知ることに価値があろう。そして第六に、私が長らく経済学部に所属して自他から得た情報を、論の展開に際して利用できる。  本文で引用するように、「文系学部廃止論」に関する論説は、新聞・雑誌・書籍な

経済学部は必要なのか(1) 予告

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 このブログにおいて、評論『経済学部は必要なのか―「文系学部廃止論」と大学の将来』を連載することにしました。週一回以上の頻度の長期連載になると予想しております。  過去二、三年の間に「文系学部廃止論」が話題になりました。この評論では文系学部のなかから経済学部を選び出し、主にその存在意義を検討して、経済学教育および大学教育一般を今後どのようにしたらよいかを考えたいと思います。関連して一般教養教育の意義も論じることになるでしょう。  この評論を日本語の表現に関する筆者独自の挑戦の場にもしたいと考えています。言語としての日本語には、二つの主要な短所があると私は以前から考えていました。一つは関係詞がないことですが、この問題の解決はかなり困難です。もう一つは文末の表現が単調になることで、この第二の短所の改善を試みることが、今回の挑戦にほかなりません。すなわち「である調」の場合に、「る」で終わる文が多くなりますが、そのような文が連続しないようにするつもりです。これは今までに誰も行ったことのない大胆な挑戦といえるかもしれません。  なおブログにおける連載という評論公開方法のために、読者のご批判やご意見を随時反映させて連載を継続することも可能です。読者の許可があれば、実名や仮名を使わせていただくかもしれません。こうした評論の展開はブログという公開方法の興味深い特色になるでしょう。ただしコメントの採用は、あくまで筆者の主観で判断させていただくことになります。  ご期待ください。 コメントをどうぞ kazuhiro.arai888@gmail.com 荒井一博のホームページ  http://araikazuhiro.world.coocan.jp/

平成30年3月17日 外国人観光客に日本を楽しんでもらう方法

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 外国人観光客が増えている。 2020 年の東京オリンピックの際は、もっと多くなるであろう。それに対応して、彼らに日本滞在を楽しんでもらう工夫がさまざまに考案されている。その一環として、彼らの情報収集を促進する簡単な方法を提案してみたい。  かつて中国を旅行したとき、駅などで見かけた一般人に英語で話しかけてもまったく通じず辛い思いをしたことがある。外国人が日本でそれほど辛い思いはしないと推察するが、それでも外国人の質問に対して、理解できるように答えられる日本人は少数であろう。問題は、外国語を使って話せる日本人を、外国人がどのように識別できるかである。  解決法は簡単だ。外国語で説明する意思のある個人の服装の一部に、それを目立つように表示すればよい。例えば「○○語で質問してください」と、その言語で書いた腕章を付ければよい。Tシャツの背にそう書いてもよい。  外国人と英語その他の言語で話したいと思っている日本人は、少なからずいるであろう。英語などを熱心に学んでいる大学生や、定年退職した海外滞在経験者などである。そうした日本人にとっても、外国語を話すことは言語学習や言語能力維持の助けになるであろう。  上記のような腕章やTシャツは、衣料品店や百円ショップなどで販売可能だ。観光政策として、政府はこの方法の普及をはかったり、外国人観光客に周知したりできる。外国語の種類や能力レベルによって、腕章などの色分けやデザインによる区分をすることも考えられよう。ただし、以上はあくまで無報酬のボランティア活動である。   ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 連絡先  kazuhiro.arai888@gmail.com 荒井一博のホームページ  http://araikazuhiro.world.coocan.jp/ 荒井一博のブログ 海外向け  https://araikazuhiroen.blogspot.jp/ 荒井一博のツイッター 国内向け  https://twitter.com/araikazuhiro88 海外向け  https://twitter.com/araikazuhiroe88

平成30年3月11日 日本は衰退している(4)日本人の倫理観①

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 日本人は集団主義的か否かという議論が、心理学の分野でなされることがある。日本人は集団主義的であると多くの日本人が信じているので、そうでないと主張すれば学界の注目を浴びて、そうした主張の論文は権威ある雑誌に掲載される確率が高まろう。そして、実際にそのように主張し注目を浴びている社会心理学者が存在する。  しかし、日本人が集団主義的である明確な証拠を示したい。日本人は組織内で悪事を働くときに、ほぼ確実に集団主義的になる。日本人が組織内において一人だけで悪事を働くのはきわめて稀で、銀行員が銀行の金を使い込んだ話を稀に耳にする程度だ(最近はほとんど聞かない)。  ここ数年、企業の不祥事がいくつか発生している。神戸製鋼所の品質データ改竄、三菱自動車の燃費データ不正、東洋ゴム工業の免震ゴム偽装などだ。 1990 年代半ばにも企業の不祥事が頻発した。これらのほとんどすべてが「組織ぐるみ」である。つまり、組織内の何人かが申し合わせて不正を決断し、それを組織が実行しているのだ。彼らは組織内で有力な「仲間(集団)」で、通常その中には管理者も入っている。社会科学でインフォーマル・グループと呼ばれるものの例にほかならない。  彼らは業績を挙げたかのように見せるために、仲間で申し合わせて不正を行う。仲間で行えば、良心の呵責をほとんど感じなくて済む。組織内には仲間でない組織成員もいるが、不正を公にすると集団で嫌がらせを受けると予想するため、不正を問題にしない。組織内で有力な集団に目を付けられると毎日が地獄になるので、だれもその不正を指摘したり暴こうとしたりしないのだ。  日本の組織でこのような不祥事が発生するメカニズムを、私は『終身雇用制と日本文化』で詳しく論じたことがある。不祥事の発生した某組織の成員にその後偶然会う機会があったとき、同書に書かれている通りのことが起きたといわれた。また、日本の組織内で不祥事が発生するときは、ほぼ必ず派閥などのインフォーマル・グループがかかわっていることを『文化の経済学』の第三章で詳しく論じた。  日本は伝統的に信頼を重視する社会であり、世界的にみると今日でも信頼が重視されている。日本の犯罪率が世界最低水準であることがその強力な証拠だ。 しかし新自由主義の浸透とともに、短期的な金銭的利益を重視するようになった結果、インフォーマル・

平成30年3月4日 禁煙政策はどうあるべきか(3)

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 禁煙政策に関する論説の第 1 回では、喫煙が外部不経済(迷惑)を生み出すことを述べた。第2回では、喫煙者が嗜癖に陥るためタバコを消費しない自由が侵害されると論じた。両者の一つだけでも喫煙規制の根拠に十分になりうる。飲食店や路上を含めて、喫煙は禁止されるべきである。好ましくないことではあるが、政府がタバコの販売を合法としているならば、喫煙したい個人は他者に迷惑のかからない範囲で喫煙すべきである。以下では、今までに述べたことに対する補足をしておきたい。  喫煙と疾病との関係はまだ十分に解明されていないものもあるが、喫煙は多くの疾病の原因になることはほぼ明らかであろう。なによりも、多くの喫煙者自身が自分の体調の不具合をよく理解しているはずである。多量の痰が出たり風邪が治りにくくなったりする。こうした健康問題を引き起こす消費財は、製造や販売を禁止するのが政府の役割である。  武田邦彦氏は喫煙が癌の予防に役立つようなことをユーチューブで説いているが、喫煙には嗜癖の性質があるため、ほとんどの喫煙者は健康を害するほど喫煙してしまう。武田氏は嗜癖をどのように考えているのか、そして喫煙が健康によいのであれば何故自身は喫煙しないのかを説明していただけたら有り難い。万一ある程度の煙を吸い込むことが健康によいのであれば、タバコ以外の植物を燃やした煙を、嗜癖を起こさない程度吸い込むのでは不十分なのかも、説明していただけると有り難い。  禁煙運動はナチのしたことだ、といって禁煙運動に反対する人がいる。これは全く非論理的な主張である。ナチのしたことをすべきでないと主張する人は、呼吸も食事もしないのであろうか。ナチの人たちは、たっぷりと呼吸も食事もしていたのである。  今回の禁煙論議では、飲食店が禁煙になると来客が減少すると危惧されているようだ。しかし、すべての飲食店が禁煙になれば、来客減少の効果はほとんどないのではなかろうか。実際のところ、外国における禁煙条例の実施はレストランの売上に影響しなかったという報告がなされている。また喫煙者の支出減は非喫煙者の支出増によって埋め合わされてもいた。詳しくは下記の拙著を参照されたい。 荒井一博『喫煙と禁煙の健康経済学-タバコが明かす人間の本性』。私のホームページにて無料閲覧できます。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。