投稿

1月, 2018の投稿を表示しています

平成30年1月28日 日本は衰退している(2)経済学者の責任

イメージ
 「失われた 10 年」が「失われた 20 年」になり、ほとんどの日本人はもう「失われた 30 年」に関心を示さなくなりつつある。日本がその国際的地位を大きく下げた平成の時代に、日本の経済学者は何をしていたのだろうか。わが国には何千人もの経済学者がいるにもかかわらず、彼らは日本の衰退をただ傍観していたのか。最も責任の重いのはマクロ経済学の専門家で、彼らこそが日本の不景気や低成長の処方箋を書くべきであった。 一部のマクロ経済学者は、世界を支配しつつあった新自由主義に依拠して処方箋を書いたが、実際には何の役にも立たなかった。また、莫大な財政支出によって巨額の財政赤字を累積させたものの、実感できる景気上昇はなく、ほぼ 30 年にわたって低成長が続いている。近年の金融政策は2%の物価上昇を目標としているが、まったく実現されていない。マクロ経済学者以外にもかなりの責任があろう。  この 30 年間の歴史で判明したことは、少なくとも日本のマクロ経済において、新自由主義が役に立たないことである。他のマクロ経済学の有効性も怪しい。日本の経済学者は誤った処方箋によって、 1 億人以上の国民を苦しめた。米国だけでなく日本でも個人間の経済格差が拡大して、この期間に経済成長の恩恵を受けたのは一部の富裕層のみである。  こうした現実を目の当たりにしても、新自由主義的なマクロ経済学者をはじめとする日本の経済学者が、深く反省しているようにはとても思えない。深い反省の記事を目にしたこともない。テレビなどのメディアに登場する経済学者は、むしろ日本経済が悪化するほど、多くの仕事が自分にまわってくる、と考え喜んでいるかのようである。正しい治療をしない医者が患者にすがられ儲かるのに似ている。  直截にいえば、日本の学界をリードする経済学者とって、日本経済のことは二の次の重要性しか持たない。彼らにとって最も重要なことは、米国の経済学界における自分の地位を高くすることである。米国の経済学雑誌に自分の論文が掲載され、米国の大学などで自分が気持ちよく受け入れられることだ。そうであれば、日本における自分の地位も自動的に高くなる。日本における経済学者の社会的地位はほぼ米国基準だからである。 米国の経済学界における自分の地位を高くするためには、米国における経済学の研究動向に目を凝らし、米国人経済学

平成30年1月21日 日本の山は巨大資源だ

イメージ
 航空機に乗って上空から日本の国土を眺めると、そのほとんどが山であることを実感する。日本の国土の約三分の二は山地だ。しかもそのほとんどの部分は、訪れる人が極めて稀である。多数が訪れる山の観光地はほんの一部であり、地元の人々がときどき足を踏み入れる山も、山地全体から見たらほんのわずかな部分にすぎない。  日本の排他的経済水域の面積は世界第六位とかで、最近は日本人の目が海洋にも向かい始めているが、国土の三分の二に達する面積を有しながら、今まで軽視されてきた山地にも目を向けるべきである。すなわち、その有効活用を考えるべきだ。  日本の山には清流や滝があり、青々と茂った草木があり、小鳥のさえずりがある。少なからざる日本人がリュックを背負って山に入るのは、そうした自然を求めているからであろう。山歩きはそれらの人たちに、生命に満ち溢れた非日常的な景色、新鮮な森林の空気、生きていることの喜び、そして適度な運動と疲労を与えてくれる。山道が歩きやすく整備されていれば、毎週でも山歩きをしたいという人たちは多いであろう。  しかし、日本では一部を除いて山の遊歩道が十分に整備されていない。地元の人しか知らない山道が多すぎる。それらを拡張し歩きやすく整えるとともに、標識や地図を充実させ、携帯電話や GPS を山中でも使えるようにすべきだ。そうすれば多数の人たちが山を訪れるようになり、日本の山地全体が大観光地に変身する。各種の清潔な宿泊施設も完備されるであろう。  私の経験からは、ニュージーランドがある程度良好な山の遊歩道を整備していると感じた。オークランド近郊の低い山にも、また標高の高いクック山の氷河周辺にも、いくつかの遊歩道があり、普通の人たちが山歩きを楽しむことができる。 日本には広大な山地があり、植物的・地形的な多様性も大きいので、遊歩道を全国の山地一帯に張り巡らせば、質的に世界トップレベルの山歩きを楽しむことができるようになろう。もちろん、コンクリートの使用などは少なくして、自然破壊を最小限にすべきである。遊歩道の建設は高速道路の建設などと違ってローテクかつ割安であり、地元の小規模建設業者でも十分に対応できるはずだ。一日千円以下の遊歩道使用料を徴収すれば、建設費用の回収が可能かも知れない。 日本の山の魅力は世界屈指ではないかと個人的に感じている。雄大な景色を

平成30年1月14日 日本は衰退している(1)一般労働者

イメージ
購入した商品の使い方や契約書の説明などが分からないために、製造元や販売会社に電話することがある。そうしたときに、まともな答えの得られない場合のほうが多いように感じるのは、私だけではあるまい。これには複合した要因が関係しているであろう。 第一に、電話で対応する社員は自分の仕事に関してあまり勉強していない。少しでも込み入ったことを質問すると、彼女ら(彼ら)は答えられなくなる。契約書など読んでいないようだ。答えられなくなり、「ちょっとお待ちください」といって、質問者の了解も得ずに電話を保留にして、 5 分以上も待たせることも稀ではない。他の社員か上司に聞きに行っているのであろう。質問者の質問に答えられず、沈黙してしまう社員も少なくない。ずっと沈黙していて、何とも思わないのであろうか。 第二に、そうした社員は勉強していないために知識不足であるだけでなく、顧客のために良質なサービスを提供しようとする意思もないようである。与えられた仕事を適当にして一日を過ごせればよいと考えているようだ。顧客は神様だと考える企業がかつては多かったが、今では消滅したかもしれない。 第三に、明らかに会社は社員教育を熱心に行っていないようである。社員の知識が十分なことを確認(テスト)もせずに、電話の対応につかせているようだ。かつての日本企業は社員教育に熱心であったが、今では事態が大きく変わってしまった。社員がまずい対応をしても会社は恥ずかしくないようだ。 第四に、電話で対応している社員の多くは非正規雇用者ではないか、と私は推察する。非正規雇用なので会社は十分な社員教育を行っていないのではないか。また社員も、いつ雇用が打ち切られるかわからないので、勉強を一生懸命しないと推察される。 歴史的に日本は一般庶民が優秀な社会であった。江戸時代でも識字率が高く、一般庶民は勉強熱心であった。しかし今日の一般庶民は不勉強であるばかりか、他者に対する配慮も大きく失っているようだ。一般庶民を雇用している企業も熱心に教育を行わないだけでなく、新自由主義に影響されて、彼らを使い捨てインプットとして扱っているように私は感じる。一般労働者の仕事能力低下は、日本の衰退を象徴する事実にほかならない。 ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 荒井一博のホームページ  http://araikazuhiro

平成30年1月7日 日本の英語教育をどうすべきか

イメージ
 比較的若い年齢から真面目に英語を学習すれば、将来は英米人と自由に会話や議論ができるようになる、と文科省の官僚をはじめ多くの日本人が信じているかもしれない。こうした信念に基づいて、今日の小中高大の英語教育がなされていると推察される。 しかしこの信念は完全な誤りであることを、ここで指摘しておきたい。私自身が多大な時間を英語学習に投入し、また日本人としては英語のできる多くの人たちを観察してきた結果、こうした確信を抱くようになった。 そのため今日の日本の英語教育は、努力と資源の壮大な無駄遣いを生み出す強制労働にすぎず、その効果は小さいと考えている。こう指摘され以下の私の主張を知れば、賛成する日本人も多いであろう。私の考えの要点を記しておきたい。  まず、英語がたいへん複雑で外国人にとって習得困難な言語であることを認識する必要がある。特に、印欧語に属さない日本語を母語に持つ日本人には習得がきわめて困難だ。ほぼ不可能ともいえよう。その理由はいくつかある。 第一に、英語は仏語や独語などと比べても単語数がきわめて多い。単語数が多いと、記憶することが大変なだけでなく類義語が多くなり、それらの間の微妙な相違の理解も必要になる。それだけでなく、英単語の使い方には規則性が少なく、それぞれ暗記しなければならない。 第二に、英語には動詞と前置詞などが結合して特別な意味を生み出す句動詞( get on など)が多数あり、それも記憶しなければならない。 第三に、さらにイディオムという特殊な表現もあって記憶していなければ、円滑な理解ができない。 以上は記憶の問題であるが、英語の論理にも理解困難な側面があり、日本人が完璧に理解することはまず不可能である。その一つが冠詞の使用だ。日本人が冠詞とくに定冠詞を正確に使うことはほぼ不可能かもしれない。かつて、著名な同時通訳者に冠詞はどう学習したらよいかと尋ねたことがある。答えは、冠詞だけはどうしようもないというものであった。これが、第四の習得困難な理由である。 第五の理由として、数の扱いに関する英語の論理を挙げたい。数えられる名詞として扱うか否か、単数とするか複数とするかの問題である。英語は数に対するこだわりの異常に強い言語のようだ。冠詞と同様に、辞書を調べただけでは十分正確に表現できる問題ではない。英語を話す場合は辞書を使えないの

平成30年1月1日 謹賀新年 日本社会の再構築を

イメージ
 今から 10 年ほど前にある会合で講演したことがある。もう一人の講演者がいて、彼は技術力によって日本が世界に貢献できると主張した。その後に話をした私は、最初の講演者に申し訳ないが、日本の技術力には悲観的だと述べた。当時の社会の雰囲気や、指導的立場にいた人たちと若者の行動を観察して、将来に対して悲観的になっていたからだ。  その 10 年ほど前には、劣化が進行する日本社会を告発する憂国の書『終身雇用制と日本文化』(中公新書、 1997 年)を上梓した。原稿を書いているうちに涙が出てきて、泣きながら書いた。  今日に至って経済データに目をやると、過去二十数年の日本経済はまことに冴えないことが分かる。実質 GDP は、バブル崩壊後の 1992 年から 2002 年までの 10 年間に 8.1 %、 2012 年までの次の 10 年間に 8.6 %成長したにすぎない。米国の値はそれぞれ 39.3 %と 18.9 %、ドイツは 15.7 %と 11.8 %である。日本の実績がいかに見劣りすることか。  日本の一人当たり GDP は、 2000 年に OECD35 カ国中で第 2 位となったのが最高で、 2016 年には第 18 位に転落した。米国のほぼ三分の二で、かつては先進国のなかでも貧しいといわれていた英国やニュージーランドにも抜かれてしまった。  経済大国といわれたこともある日本であるが、今日では大きく衰退している。ごく一部に富裕者は現れたものの、貧富の格差が拡大し、若年・壮年層は全体的に貧しくなった。非正規雇用労働者が 4 割に達している。日本発の技術革新をあまり聞かなくなった。日本は今までに幾多の困難を克服して世界の人たちを驚かせてきたが、今日の日本にはそうした力がない。隣国に侮られる事態も生じている。 文化的劣化はもっと深刻だ。劣化した文化を回復させることは極めて困難だからである。日本社会に拝金主義が浸透し、大人は金儲けに取り憑かれているようだ。以前に述べたように、大学生の向学心は衰え志も低くなっている。日本人が大切にしてきた他者に対する配慮の文化も消えつつあるといえよう。企業経営者に覇気がなく深刻な不祥事も明るみに出ている。大学の使命感も希薄なのは以前に触れたとおりだ。私の悲観は現実になりつつある。 こうした大きな変化を引き起こした主