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経済学部は必要なのか(82) 数理的能力の重要性

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数理的能力の重要性  米国などと比較して、日本の生徒は伝統的に数学力が高い。これはわが国にとって有利な条件だ。今日では労働における数理的能力の重要性が高まっているからである。数学力やデータ処理能力やコンピュータ操作能力の高い個人の稼得が高いことは、かなり以前から経済学の実証分析で指摘されており、前章でも数理的能力の増大を伴う二重専攻の有利さを指摘した。  この比較優位があるにもかかわらず、日本はそれを十分に活用してこなかったと思う。その典型的な側面が、文系入試における数学の軽視だ。私大文系では数学受験者が少なく、中学レベルの数学力さえない学生が多い。本来なら数学を多用する経済学部でも変わりないようだ。  数学が敬遠される理由は、高校の数学教科書が分かりにくいことや、入試で難問が持て囃される(予想得点が低く不確実性が大きい)ことにあると私は考える。説明や練習問題(解答も含む)の豊富な数学の教科書を作り、それさえ理解すれば容易に解ける問題を大学入試で出題すれば、多くの日本人が今以上に数学好きになり、数学力は高まるであろう。難問練習は大学の一部の学科の学生がすれば十分だ。  中学校で二次方程式を教える必要はないという意味の発言をした作家に第一章で触れたが、中等教育で数学をむしろ重視すべき理由はいくつかある。第一に、生徒のなかには社会に出てから数学力を使って仕事をする者が多い。それだけでなく、中等教育の段階では将来の職業や仕事内容が確定していないので、多くの生徒の数学力を高めておくのが個人や社会全体にとって有利だ。しかも前述のように、数学力を要求する仕事は多くなっている。 第二に、今日の知識は数学的に表現されているものが増えているので、高校数学が理解できないと、大学入学後に履修できる科目が大きく制約されよう。ある程度無理してでも数学力を身につけておいたほうが有利なのだ。特に数理統計学的な知識は文学部でも有益なので、それが理解できる数学力を高校段階で身につけておくのがよい。 第三に、数学は思考を正確にする。必要・十分条件、集合、関数、確率、順列・組み合わせなどの基礎的知識をもたない人の思考や表現は、稚拙かつ不正確になる可能性が高い。それと関連して、数学学習は規律を高めるであろう。数学は論理的に思考する習慣を身につけさせるからだ。数学を熱心に勉強した

経済学部は必要なのか(81) 広い知識を重視する教育

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エピローグ 日本の教育に求められること 広い知識を重視する教育  本評論は経済学部の問題を中心に論じてきたが、議論は多岐にわたった。このエピローグでは、ここまでに十分論じられなかった重要な点を数個取り上げ、できるだけ日本の教育全般に話を広げながら補足して、本評論を締めくくりたい。 本評論の主張の一つは、バランスのとれた広い知識の習得が学部教育で重要だということである。狭い分野や問題を扱う教育は大学院で行うべきだ。 この点が認識されれば、わが国の大学入試の異常さが理解できよう。多くの私大では三科目以下に限定した試験が行われている。国立大学の入試科目も多くない。そのため、受験者のほとんどが少数科目に集中した勉強をして、合格確率を高めようとする。学部教育どころか高校教育においてさえ、バランスのとれた知識が習得されていないのだ。少数科目入試では、教科書の勉強だけで解けない難問も多くなる。他方、入試多様化は基礎学力のない学生を増大させた。 個々の大学が受験者数を最大化するように入試方法を決めることは国益に反する。それは、入学者を多くするために教育内容を薄くして卒業を平易にするのと同じだ。一国全体の基本的教育方針を決めてから、そのための入試方法を国全体として考案する必要がある。  バランスのとれた広い知識の習得を目標にするならば、大学入試は高校課程の全科目を出題範囲にすべきだ(荒井、二〇〇七)。そして、教科書を理解していれば解ける問題を出題する必要がある。科目数が増えても全受験生が同一条件なので、特に問題は起こりえない。理社科目は個別科目ごとの全国テストを行い、低学年で部分的に受験可能にすることもできよう。  今日の受験競争では私立校や受験産業の果たす役割が大きく、親が富裕でなければ有利な教育は受けられない。これが社会階層の固定化の一因となり、潜在能力のある個人の活用を不十分にして経済の活力を削いでいる。また、少子化は日本社会の最重要問題の一つであるが、こうした高い教育費がその一因であることは明らかだ。高校全教科の教科書の理解だけで希望大学に合格できる入試を行えば、受験産業の高額教育サービスは不要になる。それが家計を救い少子化対策となり、優秀な人材の輩出を可能にして、日本を豊かにするのだ。  そのためには、まず参考書や問題集を必要としない内容

経済学部は必要なのか(80) 多分野の知識のネットワーク

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多分野の知識のネットワーク  二重学位や二重専攻は広い視野を提供するため、教養教育とかなり似た効果も有する。 文系と理系の分野の専攻も当然可能だ。ここでは、 人類全体の知を統合する上で、現実の教養教育やリベラルアーツ教育を凌駕する効果があることを指摘しておきたい。多分野で知の爆発が起きている今日の科学に、この効果は好ましい影響を与えると信じる。 第一章で引用したように、ミル(二〇一一)やオルテガ(一九九六)は、異分野を総合する力の育成としての教養教育を唱えた。それにならって、南原(二〇〇七)は「すでに知られている知識を各分野、さらには全体にわたって総合し組織化」する一般教養教育の重要性を説いている。だが、各分野で膨大な知識が蓄積されている今日の世界において、一個人ないしは一研究者が右のような知識の総合化や組織化を行うことはきわめて困難だ。  二重学位や二重専攻は、意外なメカニズムによって、この困難を克服する可能性が高い、と私は考える。国の内外で多数の人たちが、多様な組み合わせで複数分野を体系的に学び、複数分野にまたがる思考を深めれば、各分野の知識の間に、自ずとネットワークが形成されるようになるからだ。以下でこの点を敷衍しよう。 個人Aは経済学と生物学を学び、個人Bは生物学と物理学を学び、個人Cは物理学と社会学を学び、個人Dは社会学と経済学を学ぶというようなことが、人類の保有する知の分野全体のなかで、大規模かつ多重に生起するのだ。日本の各年齢層の十万人が二重学位または二重専攻を選択し、そのうちの一割が研究者になれば、いずれは何十万人かの日本人研究者が、複数分野の知識に基づいて研究を行うことになろう。世界では何百万人という規模だ。 たとえば、ある者は生物学の知識をもちながら経済学の研究をするか、両分野の学際的研究をすることが生起する。しかも、これと同様な研究者は、国内や世界全体で、少なくない人数に達しよう。そのため、生物学と矛盾しない経済学が形成されたり、生物学の命題に触発された経済学の研究が行われたりする。似たことは全分野間で生起するであろう。すると、現存する全分野の知がネットワークを形成し互いに影響しあって、矛盾のない知に統合されていく。 そうであれば、個々の研究者が全分野の知識を吸収して、個人的に統合努力をする必要性は大きく低下する(も