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経済学部は必要なのか(22) ゼミの議論は活発か

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ゼミの議論は活発か  ゼミでは活発な議論が行われているのであろうか。少人数制であるゼミこそは活発な議論のために生み出された教育方法だ。それは大教室講義の「欠陥」を埋め合わせると考えられている。 今日の経済学は高度に数学的かつテクニカルになっていて、学部学生が独自の研究をすることはまず不可能なので、多くのゼミでは通常十人前後の学生が一人の指導教員とともに、特定のテキストを読み合って議論することが想定されている。そのため、卒論のある四年生以外を対象とする学部ゼミではテキストの輪読が行われ、参加者が順番に担当者となって読んできた部分の内容をまとめて報告し、他の参加者とともに議論することになるはずだ。 卒論執筆を目的とする四年生ゼミでは、各自が選んだトピックに関連する文献(論文)を読んできて、最近の経済学ではどのような議論が行われているかを発表し、他の参加者とともに議論することが多いだろう。当然ながら、発表者の意見や卒論の構成などについても議論される。 ゼミには定期試験がない。各学生の報告発表が試験に相当しており、評価は合否のみで、よほどひどいことがなければ合格となる。卒論自体は段階評価が可能だ。 ちなみに、ゼミが発祥した一九世紀のベルリン大学では、特別の選抜試験に合格した一部の優秀な学生のみがゼミに参加でき、奨学金も支給された(潮木、二〇〇八)。ゼミは文献講読の演習と学生による論文報告会から構成され、演習は毎週一回(二時間)、論文報告会は二週間に一回の頻度で行われたという。学生は自分の研究について八週間の準備期間が与えられ、研究報告をしたようである。この文献購読の演習は今日の三年生以下のゼミに対応し、論文報告会は四年生の卒論ゼミに対応するといえよう。ついでながら、こうしたゼミ参加学生以外の「与太者学生」すなわち一般学生のための教育は放任主義であったようである。  右のような条件で経済学部のゼミは行われるが、趣旨に反して活発な議論は少ない。大教室の講義ほどひどくはないものの、一回のゼミで二、三人の学生が質問する程度であろう。報告発表する学生と質問やコメントをする学生との間で、質疑と応答が繰り返されることなどはまずない。つまり、テニスの試合におけるラリーのような討議はないのだ。  吉見(二〇一六)は、ゼミに近い独自の教育法の説明をしている。「私

経済学部は必要なのか(21) 質問や発言をしない学生

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質問や発言をしない学生  講義に関して学生が教師に質問できることは、きわめて貴重な特権であるにもかかわらず、学生はほとんど質問しない。次のことを知れば読者は驚くであろう。私は三十年余りにわたってほぼ毎年、二科目ほどの大教室講義を担当したが、講義中に学問内容について質問されたことは、この期間を合計しても指で数えるほどしかない。ちなみに、これらの講義では、受講生の約三分の一が経済学部に所属し、残りは他の社会科学系学部に所属していた。 次のことを知ればもっと驚くかもしれない。私はほとんど毎回の講義で(すなわち毎週)、「質問はないか」と学生に聞いて質問を促していたのである。ときには、「どんな些細なことでもかまわない」「どんな意地の悪い質問でもかなわない」「教師を困らせるような質問をしてほしい」とも伝えたのだ。しかし、学生からはほとんど何の反応もなかった。 私の講義が低質だから質問が出なかった、と読者は考えるかもしれない。しかし、私はいつも十分な準備をして講義に臨んだだけでなく、講義に関して「コメントはないか」とほとんど毎回学生に聞いて、批判も促したのである。講義内容に自信がなければ、質問やコメントは促せないだろう。批判すると成績評価で教師から嫌がらせを受ける可能性があるために批判しないと想像するかもしれないが、私はそのような「みみっちい」人間にならないよう常に努力してきたし、そもそも大教室の講義では批判した受講生の名前を知ることが通常できない。 経済学の内容は往々にして現実をかなり抽象化しているので、日常で抱く感じと異なった結論になる場合が少なくない。そのため、講義や教科書の内容を理解しようとすれば、疑問や意見はいくらでも出てくるはずであるが、学生は教室でまず表明しない。「質問はないか」といって、教師がわざわざ学生との対話を作り出そうとしているのに、空振りに終わるのだ。教師でなければ、こうした無反応な学生に教えることの辛さを理解できないかもしれない。 なぜ学生は質問やコメントをしないのだろうか。二つの理由が考えられる。一つは不勉強なことだ。不勉強ならば疑問や意見が湧いてこない。私は初回の講義で、教科書を使って予習することを強く勧めたが、実際に予習した学生は少ないと推察される。もう一つは、不適切な質問や発言をして教師に冷たくあしらわれたり、出席している

経済学部は必要なのか(20) 講義に出席しない学生

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第二章 恐ろしいほどの不勉強 講義に出席しない学生  広い知識がきわめて重要なことを前章で論じた。経団連からは、「人文社会科学系専攻であっても、先端技術に深い関心を持ち、理数系の基礎的知識を身につけることも必要」という要請がなされている(経団連、二〇一五)。他方、専門分野の知識の増大は指数関数的だ。さらに、大学図書館や市中の大型書店には膨大な数の新刊書が溢れている。こうした事態に直面する今日の大学生は、寸暇を惜しんで勉強しなければならないだろう。  しかし、経済学部の学生は恐ろしいほど不勉強で学力が低い。文系学部廃止論争では、廃止反対派の文系擁護が前面に出て、廃止賛成派を有利にする大学生の現状がほとんど語られていない。期末試験の結果などから推察すると、受講生三百人前後の講義において、必死に勉強する学生は三%以下、ある程度まじめに勉強する学生は十五%以下といえそうだ。他の学生はほとんど勉強しておらず、試験の前に多少教科書を読む程度だと推察される。これは上位の大学の例であるが、中堅以下の大学の学生はもっと不勉強だ。  そもそも講義に出席しない学生や、(出欠調査を行うと)出席点欲しさにいやいや出席する学生がきわめて多い。教師からみると、高い授業料を払っているのになぜ出席しない(したがらない)のか、と不思議に思われる。出席すれば科目内容がよく理解でき、勉強が容易になるはずだ。それどころか勉学意欲が旺盛ならば、できるだけ前の席に座って、教師の発する一言一句も聞き逃さないという気になろう。  講義に出席して教師の喋り方を見ていれば、問題の要点や理解のコツや個々の概念の相対的な重要度などを感じ取ることができる。また、教科書を読めば、教師の説明もぜひ聞いてみたいと思うだろう。読んだ小説が映画化されると見たくなるようなものだ。さらに、講義に出席すれば、理解できない点を教師に直接質問することも可能になる。他の学生がどの程度熱心に勉強しているのかも分かろう。 教科書があれば、聴講せずとも自分で勉強して理解できる、と嘯く学生がいる。もしそうであるならば大学に講義は不要だ。読むべき書籍を指定し、図書館を設置しておくだけでよい。途上国でもそうすることは困難でないだろうが、それだけで学問が発展するわけではない。講義の出席率が低い事実は、多くの学生の目的が履修単位の取得

経済学部は必要なのか(19) すぐに役立つ知識の問題点

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すぐに役立つ知識の問題点  人社系のなかにも有用性の明白な分野が存在することを、ここで確認しておきたい。会計学や法学に関する詳しい知識は、ある程度多くに人たちが所持していなければ、社会の効率性が低くなる。企業や公的機関などでは会計や法の知識が不可欠であるからだ。これらの知識は、教育を受ける個人にも社会全体にも金銭的・非金銭的な便益を生み出す。 人文系の知識は国際的なビジネスで教養として不可欠だ、という指摘もしばしばなされる。自他の文化や歴史に関する理解がなければ、大きな国際ビジネスは成功しないという考え方で、先述の日本学術会議声明でもそれが含意されているはずだ。西欧社会のパーティでは教養に裏打ちされた会話や振る舞いによって、社会に受け入れられるか否かが決まるともいわれる(立花、二〇一五)。こうした教養は主として金銭的な便益を個人(企業)に生み出す。国の外交の場では、人文系の知識が金銭的・非金銭的便益を日本社会全体に生み出しうるといえよう。  他方、文科省の委員も務める冨田(二〇一四)は、日本の大多数の大学が高度職業訓練学校になって、すぐに役立つ知識や技能の教育に特化すべきだと主張する。具体的には次のようにいう。「文学部ではシェイクスピアを学ぶのではなく、観光業で必要な英語や歴史・文化の名所説明力を学ぶ。経営学部ではマイケル・ポーターの戦略論ではなく、簿記・会計とそのソフトの使い方を。法学部は憲法、刑法でなく、宅建や大型第二種免許を取得させる。工学部では機械力学や流体力学ではなく、トヨタで使われる最新鋭の工作機械の使い方やウェブ系プログラミング言語の習得。要するに、学問より実践力です。」  このような教育は、その利益のほとんどが教育を受けた個人に発生するので、国などによる公的補助の根拠を有しない。そのため、特に国立大学でこうした教育を行うのは不適である。また、その教育を受けた人たちは、国家や社会や組織の問題に関して、全体を見渡した賢明な判断をすることがまず不可能なので、指導的な地位に就くことができない。彼らは指示された仕事を黙々とこなす機械のような存在である。  専門的な知識はごく一部の大学の学生がもてばよいと冨田はいう。「本当にアカデミズムを学生が追求できる大学もあっていい。しかし、それはグローバルで競争できるレベルでなければなりません。理系

経済学部は必要なのか(18) 大学が奉仕する普遍性の内容

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大学が奉仕する普遍性の内容 日本の大学、特に国立大学は国から多額の補助を受けているが、「大学は、人類的な普遍性に奉仕する機関であって、国立大学といえども国に奉仕する機関ではない。」と吉見は断言する。日本の大学が普遍性に奉仕する機関ならば、学生の過半を外国人にしたり、学内言語を英語化したりする必要があろう。日本経済や日本文化を研究することなどは、大学の目的に反するかもしれない。最近強調されている国立大学による「地域貢献の教育研究」も同様だ。 これと関連するだろうが、大学人の日本語による表現に関して、「知的言語世界のガラパゴス化」で、「硬い殻で外側と内側を隔て」る「エビやカニの甲殻類を連想させ」る、と彼は批判する。にもかかわらず、彼のすべての単著・共著書二十冊ほどが日本語のみで書かれているのは矛盾といえよう。日本語で執筆する時間を英語での執筆に使って、自ら垂範すべきではなかったか。 彼は普遍的価値を強調するけれど、その内容を説明しない。新古典派経済学や新自由主義も普遍性を追究した結果生まれた思想である。個別文化は経済の効率性に悪影響を与える可能性が高い、という普遍的な強い主張をもつ。しかも単純明快で、見方によっては美しいほどだ。新自由主義者は、個別文化が労働や資本の効率的使用の障害になるとみなす。今日では支持者を大きく減らしたマルクス主義も、普遍性を追求した思想にほかならない。迫害の歴史をもつユダヤ人がいずれにも重要な貢献をしている。普遍的だから善ともいえない。 そもそも普遍的価値か否か、およびその良否を吉見はどう判断するのだろうか。世界の普遍的価値と今日いわれるものは、往々にして(一部の)西欧人にとって都合のよい価値にすぎない。むしろ、特殊や個別や土着のなかに普遍性が潜んでいる場合もあると私は考える。ある民族の特殊な慣習を世界で普及させれば世界全体の厚生が高まる、ということがありうるのだ。 悪い事例としては日本のものを著書のなかで使うことなどから、吉見は日本を低く評価していると推察されるが、人種差別・植民地主義・原爆などの重要問題に対して、日本人が命懸けで取り組んできた努力には言及しない。こうした取り組みこそが真の世界的普遍性をもつとも私は考える。彼の普遍性大学論は日本悪玉論と表裏一体のようだ。 一世紀余り前に活躍したドイツ人社会学者のマッ

経済学部は必要なのか(17) 文系が役立った例はあるのか

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文系が役立った例はあるのか 私は右の主張にいくつかの疑問を抱く。ここでそれを論じておきたい。「文系は必ず役に立つ」と吉見は主張するにもかかわらず、役に立った特定分野(人文学・経済学・政治学など)の事例を一つも挙げていない。もし三〇年、五〇年、一〇〇年後に役に立つのであれば、今から三〇年、五〇年、一〇〇年前に行われた文系の教育や研究が、現時点でこう役立っていると説明すべきである。さもなければ、その主張は永遠に検証されることなく続けられることになろう。 猪木(二〇一六)の次の言説は、過去の経済学の研究をむしろ否定的に評価している。「筆者が長く向き合ってきた経済学や経済史学の世界でも、たとえば五〇年前の学界が何を『権威』としていたのかを振り返ると、『あれはいったい何だったのか』という思いを禁じえない。」 「儲かるかどうか」という視点に吉見は批判的なので、新自由主義に否定的なようだ。私自身も、かねてから新自由主義が生み出す文化的劣化や所得格差などを批判している(荒井、二〇〇〇 a )。この新自由主義は、経済学から派生したれっきとした文系思想にほかならない。すると吉見は「役立つ文系思想」の例を挙げていないが、図らずも「有害な文系思想」の例を挙げていることになる。「文系は役立たない」ことを例示してしまったのではなかろうか。 「メディアの記者たち」は文科大臣の「通知を文脈的に読み取ることができ」ていないとして、ほぼ文系出身者ばかりであるメディアの記者たちを彼が批判しているのも、文系が役立たないことの例示になっているといえよう。さらに、大学改革に関して「一五年近く前から問題点や課題が明らかになっていたのに、多くの国立大学で、そうした問題点や課題に対して有効な改革が持続的に展開されてきたようには見えない」という彼の指摘も、大学に勤務する多数の文系教員が、文系の存在理由とされる「新たな価値の創造」をしなかったことの例示になっている。 文科省主導の大学改革に対して、吉見自身は「二〇〇〇年代以降の大学の変化が、『自由』ではなく『不自由』への『改革』でしかないと多くの大学関係者は感じてきました。」と嘆くのみだ。「二〇〇四年度に国立大学法人が発足した当時、その制度設計の議論に参加していた」元一橋大学学長の石弘光が、「この文書(六月八日文科大臣通知)は国立大学法人評価委員

経済学部は必要なのか(16)  普遍的価値の追究という主張

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普遍的価値の追究という主張  人社系に焦点をあて、「文系は必ず役に立つ」と強く主張したのが、東大副学長の吉見俊哉である(吉見、二〇一六)。彼は「知識の市場化が進行」し、「『儲かるかどうか』という視点だけで知識の価値が測られるようになってき」たと嘆く。そうした動きに対して、大学は「共同体や国家、企業や宗教といった個別的な価値の限界を超えて、脱領域的、越境的に普遍的な価値を追究・創造」する役割を果たす(べきだ)と論じる。それは「地球社会における未来的価値」だという。「大学は国という単位を超えた普遍的価値に奉仕する存在」であるというのが彼の主張だ。 大学が追究する「この普遍性は、概して業界団体や国家などの利害や価値よりもずっと遠くにありますから、その実現に至る時間は長くなり、射程に入ってくるべき範囲も広くなります。」と吉見は述べ、大学の目指すところが業界団体や政府のそれと食い違う傾向があることを指摘する。「文系の知は、法学や経営学の一部を除くならば、大概は三〇年、五〇年、一〇〇年を視野に入れながら己の価値を考えています。」と彼はいう。文系の知は今すぐ役立たないが数十年後に役立つ、というのが彼の言い分だ。 最近の就職予備校化論に関しては次のように論じる。「大学と専門学校を隔てる最大のポイントは、大学は社会的需要に応じて『人材』を供給する訓練所ではないこと、そのような人材需要の短期的変動を超える時間的な長さや空間的な広がりをもった価値と結びついていることにあります。」 吉見のもう一つの主要な主張は、「グローバル化のなかで国民国家がゆっくりと確実に退潮している」ので、それに対応した方策が必要だということである。これは普遍的な価値の追究と関連しているとみなせよう。たとえば、日本の大学は言語などの壁で防御された「エビやカニの甲殻類を連想させ」るので、英語化などによって国際交流をはかり、壁を崩す必要があると説く。 そして次のような診断をする。日本の大学では「日本語の世界だけに閉じるような仕方で学問的言説が体系化されていったのです。その結果、知的言語世界の一種のガラパゴス化が生じていきます。…日本語だけで議論をし続けていること自体が、日本語を母語としない学生や研究者に対して壁を築き、外部監査を拒むことになってしまうのです。こうした状態が自明化されていくと、日本語

経済学部は必要なのか(15) 教養と真正の文化意識

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教養と真正の文化意識  大学が相対的に裕福な市民層を対象とした欧州と違って、国民の広い層を対象とした米国では、一般教養がある程度独自の発展をした。すなわち、そこでは民主主義を支える「よき市民」の育成と基礎知識の教育が主たる課題とされ、一般教養より一般教育 (general education) という呼称が多く用いられたのだ。 学生には「有効な思考」「コミュニケーション」「適切な判断」「価値の区別」に必要な能力が求められ、自然科学・社会科学・人文科学の教育が行われた。  今日の米国の大学でも、学部レベルではあまり専門化を追求しない傾向がある。専攻の変更や複数分野の専攻はかなり自由に行うことが可能だ。本格的に専門的な教育は大学院に任せる、というのが今日の米国大学の一般的方針となっている。大学院入学時に専門分野の知識が不十分な学生のための科目も用意されているのが現実だ。  米国の大学は、学生に自由主義的な民主主義に適応すべきことを強調しすぎて、それが内蔵する欠陥への注目が不十分ではないか、とオルテガ(一九九六)の解説で井上正は問題提起をする。米国の一般教育には、近代文明が現代人の内部に発生させている諸疾患に対する反省が不十分だという。現行の民主主義を最高善とみなして、それに対する懐疑がないという批判だ。自国文明に対する懐疑や相対化が弱い米国社会の一面ともみなしうる。 井上は次のように説く。「オルテガも、近代の科学・技術、民主主義文化の本質的諸原理は、これからも尊重し維持しなければならないと強調する。しかし、一般教養の必要性を力説するのは、その諸原理を尊重するがゆえにというよりは、むしろ、今日それのもつ弱点が、その招来せしめている疾患が、われわれの時代を危機にまで追い込んでいるがゆえに、であった。」既に存在する特定の制度の受容を促進するのが一般教養の役目ではなく、その正統性や病理も問題にする教養が必要だという考えである。 オルテガの意図した教養は、「現代社会の体内に真正の文化意識を喚起させる『精神力』」となるものだ。現代文明を批判的に発展させる精神ないしは倫理ともいえよう。今日の経済学に最も欠ける要素であり、今後の経済学に切に望まれる研究課題である(荒井、二〇〇〇 a )。 すべての人間が人生で必ず直面する重大な選択肢は、悪の権力に従うか、それ