投稿

11月, 2017の投稿を表示しています

平成29年11月30日 アマゾン関係の利用代金明細書

イメージ
 成長著しい通販大手アマゾンとの取引に関する「ご利用代金明細書」が、カード会社から利用消費者に毎月送られてくる。その表記法が不適切なことを、 11 月 29 日アマゾンに電話で伝えた。以前から気になっていたことであるが、今回は不適切さを強く感じたので、苦情を伝えることにした。  私の受け取る「ご利用代金明細書」には、「ご利用内容」として「 AMAZON.CO.JP 」と記された項目がいくつか記されており、「ご利用年月日」と「今回ご請求額(円)」などが記されている。  問題は「ご利用明細」と「注文履歴」との照合がきわめて困難であることだ。要点は次の三つである。①実際の発注日と異なる「ご利用年月日」が記載され、「今回ご利用額(円)」がいくつかの発注商品の合計金額であったり、個別の商品の金額であったりする(つまり一度に発注した複数商品がランダムに分割・結合されている)。②「注文履歴」に記されている取引商品の順番と「ご利用代金明細書」に記されている順番がかなり異なる。③「ご利用代金明細書」に記載されている「ご利用年月日」が注文履歴に記載されている「注文日」や「配達日」と対応していない。  私はアマゾンと電話で話して、「ご利用代金明細書」の目的を確認した。すなわち、そこに記されている個々の商品の取引が、注文履歴のそれと同一かをチェックするために、「ご利用代金明細書」が送られてくることを確認した。そうであるならば、「ご利用代金明細書」と「注文履歴」に記されている取引の対応が一目でわかるように工夫すべきではないかと注文をつけた。アマゾンは私の注文を聞いて、社内で検討すると回答した。  以上が概略であるが、ここまでに至るのに、電話で1時間ほど議論した。最初に対応した社員は要領を得ず、しばらくしてその上司と話した。上司は「注文履歴だけでなくアマゾンからのメールも見てほしい」などと当初は主張していたが、1ヵ月間に個人に届く何百というメールなどと注文履歴を照合できないと伝えると、納得したようだ。  アマゾンは改善を検討すると回答したので、今後の対応を注視していきたい。私は他の企業にも商品の問題点を指摘して改善に寄与した経験があるので、機会があれば後で紹介したい。多くの消費者が商品の問題点について企業に注文をして、日本の社会を暮らしやすくしていくよう期待したい。

平成29年11月22日 不勉強な大学生

イメージ
 大学で講義してみると、学生の受講態度から彼らの不勉強が推察できる(私の見聞きしているのは文系学生)。ほとんどの講義室で学生は後方の席に座っている。それだけでなく、下位の大学では学生の私語が多くて、正常な講義が困難だ。私語は最後部辺りに座っている学生に多い。私語をする学生に向かって講義する教師は惨めなものだ。教師が私語を注意すると、教室は一時的に静かになるが、しばらくすると元に戻ってしまう。 教室内が私語でワイワイガヤガヤしていても、一向に注意せずに講義を続ける教師がいる、と学生から聞いたことがある。私語を注意すると不愉快になるためであろう。その教師は、黒板やプロジェクタのスクリーンに向かって、独り言をいう気持ちで講義しているはずだ。大変な苦痛であるに違いない。ちなみに彼の講義に対する学生の評価は学内トップクラスらしい。 講義には出席するけれど、机にうつ伏して眠っている(ような)学生がいる。また、講義中にストローでジュースや牛乳を飲む学生が最近は現れているようだ。ひょっとしたら講義中に物を食べる学生もいるかもしれない。まるで相撲や野球を観戦するような気分で、講義に出席しているのだろう。 テレビを見るような気で講義に出席する学生が多いことは、私もかなり前から気づいていた。「教師は勝手に講義してください。私は好きなようにそれを見ています。」というのが彼らの受講態度だ。そこには講義に参加するという意識がない。教師と学生が一つの共有された空間のなかで相互作用を演じるという意気込みがないのだ。そのために、質問を促しても質問しないし、教師が学生を指名して質問でもしようものなら、当惑した表情や不機嫌な表情を浮かべる。できるだけ指名を避けることも、後方の席に座る理由といえよう。 佐藤・田中・尾崎(1994)には、「なぜ、みんなで自分の意見を出して話し合っていくような授業をしないのだろう」という18歳の高校生の意見が紹介されているが、実態は上の通りだ。「教員と学生がともにつくり上げる学びの<場>としての大学」(室井、2015)は理想であっても、現実ではない。批判精神の育成や討議や学生と教師の学び合いなどは美しい言葉であるが、学生の向学心や努力なしには成立しない。今日の学生にはそれらが決定的に欠けている。 大学生を対象としたベネッセの調査によると、「授業の予復習や

平成29年11月18日 退職者パワーの活用法

イメージ
 すでに退職した人たちの数が急激に増大している。彼らの多くは生活に困らないほどの資産と年金収入があるものの、時間を持て余し孤独である。これを解決する妙案を提起したい。  市町村が退職者を対象に清掃ボランティアを募集すればよい。 10 人から 20 人ほどのグループを作って、ごみバサミと大きめのビニール袋を貸し与え、午後 1 時から午後 4 時くらいまで、市町村道や公園のゴミを拾ってもらうのだ。作業終了後は、彼らに一人千円くらいのアルコール飲料やおつまみなどを提供して懇親会をしてもらう。このようなグループを多数作り、同一人が週 1 回ほど参加できるようにする。  ゴミ拾いという共同作業をすれば、グループ内の会話も弾み、退職者同士は自然と仲良くなれだろう。さらに懇親会で飲食をともにすれば、親密度が高まるにちがいない。孤独感などはどこかに吹っ飛んでいき、次の週のゴミ拾いが楽しみになるはずだ。精神衛生にきわめて有効だろう。それだけでなく、ゆっくりではあるが 3 時間も歩けば、かなりの運動になる。  人口の多い自治体では、趣味や関心別にグループを作ってもよいだろう。絵画・音楽・映画・野鳥・政治経済・歴史などの同好グループだ。そうすれば話も大いに盛り上がり、ゴミ拾い以外の日も集まろうということになるかもしれない。  商店近辺の清掃の際は、商店の掃除や片付けや商品の搬出入なども手伝うことができるかもしれない。そうすれば、懇親会に商店からの差し入れもありうる。退職者が多くの商店と親しくなって、商店街が活性化するかもしれない。  こうした退職者パワーの活用法には次の五つの利点がある。①退職者の孤独感が解消し、彼らの精神衛生が向上する。②運動によって退職者の肉体的健康が向上する。③退職者の精神的・肉体的健康が向上して、医療費を節約できる。④市町村は少ない費用で地域の美観を維持できるため、財政が健全化する。⑤商店街や地域全体が明るくなり、経済的にも繁栄する。  今日の日本の道路や公園の美観はまずまずの水準にあるといえよう。私が特に気にしているのは、美観の劣る河川が少なくないことである。多くのビニール袋や布切れが河川内の草木に引っかかっている。自転車・椅子・傘・ボールなども河川に捨てられたり放置されていたりする。きわめて醜く不潔である。退職者パワーの活用によって清掃

平成29年11月15日 学生の授業評価

イメージ
 最近は、各学期の最終講義の際に、学生による授業評価を実施する大学が多い。学生は選択肢のある質問に答えたり、自由筆記の蘭に記入したりして評価を行う。全教員に関する評価結果を冊子などにまとめて、教員や学生に公表している大学もある。学外者も閲覧可能かもしれない。授業評価の目的は「講義の改善」と「教員の勤務評定」であろう。後者はほとんどの大学でまだ公式に表明されていないと思われるが、近い将来に実現する可能性が高い。 授業評価を経験してみると、奇妙なことをいくつか発見する。「(マイクで)話す声が小さい」「講義のスピードが速すぎる(講義内容が多すぎる)」「パワーポイントのスライドの切り替えが速すぎる」というような意見が多い。そうした意見があるならば、なぜ学期の初めころに教師に口頭で伝えないのだろうか。講義最終日に意見をいっても、まったく評価者の利益にならない。また、わざわざアンケートを行わないと、この程度の意見さえ表明できないのも情けない。 授業評価を行うと学生の学力は上がる、と多くの人が信じているかもしれない。しかし、(今までよほど低質な講義が行われていた場合を除き)学力は概して低下する、と私は考える(数十年前は低質な講義も少なくなかったが)。学生を厳しく鍛える講義が低い評価を受けて消滅するからだ。学生の評価を気にして教師が平易なことばかり教えたり、講義内容を削減したりすれば、学生は知識量が減るし勉強もしなくなる。学生に迎合した落語のような講義では、思想や文化の伝達も不可能だろう。また、頻繁に行われる授業評価は、学生に自分が主人で教師が従者であるような意識を醸成し、学力低下を促進する。学問は教えを乞うてするものだ。 授業評価には深刻な問題がいくつかある。 * 学生の向学心の程度によって評価基準が異なることを、現行の方法は考慮していない。いい講義はどんな学生からも高く評価される、という思い込みから授業評価が実施されている。実際には向学心に欠ける学生が圧倒的に多く、こうした学生は厳しい講義を高く評価しない。評価のポイントを高めるために、そうした学生に合わせて教師が授業を行うことは好ましいのだろうか。不勉強の学生の尻を叩いて勉強させる授業のほうが好ましいと私には思われる。 また一般に、学生は学問や現実世界に関して教師より情報不足なので、学生を神様のごとくみなす消

平成29年11月9日 慰安婦問題の解決法

イメージ
 慰安婦問題は世界におけるわが国の名誉にかかわる重大問題だ。また、今日の日本外交の選択肢も強く制約している。そして今まで日本の月刊誌には、慰安婦問題に関する論文や記事が多数掲載されてきた。事実無根の著書や新聞記事によって、日本を貶める虚偽情報が世界に拡散したことを問題視するものだ。  それらの論文や記事は何のために書かれたのであろうか。慰安婦に関する韓国の主張が虚偽であることを、 多くの日本人は大分以前から 知っていた。河野談話や宮澤喜一首相の謝罪も外交的な策略に嵌められたものであることを知っている。それと似たような結論の論文や記事を、なぜ月刊誌は多数掲載してきたのであろうか。日本人がそれを読んで、「やっぱり日本は正しかったんだ」と納得・安心させるためではないか。  それらの論文や記事の執筆者は、世界の虚偽を日本人に詳しく知らしめ再確認させたと胸を張ったかもしれないが、それらが日本の月刊誌に掲載されても、慰安婦問題はいっこうに解決しない。慰安婦問題の真髄は、誤った情報が世界に拡散し信じ込まれていることなので、虚偽であることを知らしめるべき対象は、日本人ではなく外国に住んでいる人たちであるからだ。  そのため、慰安婦問題を日本の月刊誌が日本語でいくら論じても、問題解決に貢献することはできないのだ。そうすることは自慰行為にほかならない。慰安婦問題については、外国人に対して英語で主張しなければならない。  日本の月刊誌に論文や記事を投稿した人たちは、なぜ自分の主張を英語で発信しなかったのだろうか。慰安婦問題の虚偽性を告発する英語の著書が世界で 20 ~ 30 も刊行されれば、世界の人たちは韓国人の主張などを信じなくなるだろう。英語力が不十分というのであれば、日本語で執筆して英訳を依頼することもできたはずである。数百万円の出費で一つの立派な著書ができたはずだ。マスメディアで売れている人たちにとって、この程度の金額は端金と思われる。むしろ印税が入った可能性もある。  日本人の歴史家・研究者も、慰安婦問題について、なぜもっと目立った活動をしないのだろうか。世界の主要な学術誌に英語論文を投稿したり、英語の著書を出版したり、あるいは「戦争と性」に関して英語の学術誌を立ち上げて世界の言論をリードしたりすることもできたはずである。  ほとんどの日本人にとってき

平成29年11月7日 図書館と出版不況 

イメージ
図書館は社会に有益な素晴らしい施設だ、と多くの人が考えているであろう。優れた社会を実現するのに資する崇高な知識を、万人が無料で利用できる神聖な施設だと。図書館の建物は、そうした考えを反映して、静謐な雰囲気を醸し出すように多少厳かな造りになっている。図書館員という職業は、地味であっても堅実さを示唆しよう。 もう 40 年も前に留学した米国の大学には、壮大な図書館があった。当時の日本の大学の図書館と比べると、数階建ての本館はとても大きく、各階に洗面所が設置してあって驚いたものだ。蔵書数では全米の大学図書館のうちで 5 本の指のなかに入ると聞いた。現在では、日本の大学図書館も増築を繰り返して、大分大きくなっている。 日本の市民図書館が今日充実していることも注目に値しよう。市民はほとんどの一般向け書籍と雑誌を無料で閲覧できる。人気のある書籍は一つの図書館が数冊単位で購入するようだ。それでも何週間かの順番待ちらしい。朝から夕刻まで図書館で過ごす退職者も少なくないという。 確かに利用者にとって図書館は大いに有益である。数千円の書籍でも無料で閲覧できてしまう。だが、この利点は一般利用者の視点からのものにすぎない。図書館が機能するためには、図書館の建物や図書館員だけでなく、原稿を執筆する著者やそれを書籍にする出版社の貢献も不可欠だ。にもかかわらず、利用者が無料で図書館の書籍を閲覧すると、市場で流通する書籍が少なくなり、著者・出版社・書店などの得る報酬が不当に低くなる。低報酬になれば、書籍の出版に対するインセンティブが弱まり、書籍の供給が少なくなってしまう(特に大衆受けのしない良書はそういえよう)。最終的には潜在的書籍利用者の利益も小さくなる。 経済学的に表現すると、本来私的財として供給されているものを、あえて公共財のように無料で利用可能にしているのが図書館なのだ。私的財とは、スーパーマーケットで購入する特定の秋刀魚のように、ある個人が消費すると、他の個人はそれを消費できない財である(消費者Aの購入した秋刀魚は消費者Bが消費できない)。それに対して公共財では、利用料金を支払わない消費者(フリーライダー)を排除することが困難なので、同一のものを多数の消費者によって無料で消費できる制度が制定されるのだ。その代わり、公共財の供給量は政府によって決められ、税金が供給の財源と