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経済学部は必要なのか(76) 優れた指導者と市民が生み出す便益

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優れた指導者と市民が生み出す便益 一国の優れた指導者が生み出す社会的便益は巨大だ。首相が主導する経済政策によって、わが国の経済成長率が一%増えるだけで、 GDP は五兆円も増大する。対外関係に目を向けると、人種差別反対や独立支援などによって、日本が今までに世界に与えた恩恵は計り知れない。他方、いくつかの国から受けた反撃や嫌がらせの被害は甚大でもある。日本の外交的な不手際や怠慢が被害を増幅した。優れた指導者によって適切な外交が行われれば、数百兆円いや数千兆円に匹敵する社会的な金銭的・非金銭的不利益が回避されたり利益が国民にもたらされたりすることも理解できよう。 組織の指導者の生み出しうる社会的便益も大きい。指導的地位にいる者の能力や人格が優れていれば、その部下は安心して思う存分に働くことができる。そうすれば、利潤の増大などの金銭的便益があるだけでなく、組織成員の精神的満足の増大という社会的な非金銭的便益も生まれるはずだ。逆に、指導的地位にいる者が低能力で品性卑しければ、胡麻をすったり、同僚の悪口をいったり、不正に諾々と従ったりする部下が多くなるであろう。こうした組織は低迷したり、いずれ社会的評判を失ったりするだけでなく、その組織成員全体が享受できる幸福度も低くなる。精神的満足は経済学や経営学で軽視される傾向があるものの、会社員の愚痴から分かるように、国民一般が抱く幸福度に対するその貢献はきわめて大きい。 社会の劣化を防ぐためには、優れた指導者だけでなく優れた市民も必要である。多くの指導者は普通の市民によって選ばれるし、市民の能力と価値観が社会の質を大きく規定するからだ。組織内の指導者も一般成員の支持なしには決まりにくい。優れた市民を育成する教育は、優れた指導者を育成する教育ほど厳しさを要求しないが、第二章や第三章で論じた今日の経済学教育のような生ぬるさは許されない。経済学は能力と価値観の育成において深刻な欠陥を有するので、経済学部の学生が優れた市民になるためには、二重専攻以上の勉強内容と勉強量が必要だ。文化的素養も必要で、それが欠ければ魅力的な日本人にはなれない。 人が外国を訪れて一般人と接したとき、「このように素晴らしい人たちがこの優れた国をつくり上げているのだ」と感じることもあろうし、逆に「このように品格の劣る人間ばかりだからこの国は劣等なのだ

経済学部は必要なのか(75) 二重学位と二重専攻の社会的便益

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二重学位と二重専攻の社会的便益 右で指摘した二重学位や二重専攻の私的便益に、読者は目を見張ったかもしれない。しかし本章では、第六の便益としての社会的便益を最も重視したい。本評論がここまでに特に問題としてきたのは、私利追求思考の蔓延による日本社会の劣化である。そのためここでは、経済学専攻者の二重学位や二重専攻が、この劣化を阻止するのに役立つという社会的便益を指摘したい。 日本の有力大学は、社会(や組織)を善導できる能力と精神のある指導者を生み出す教育をする必要がある。それがきわめて大きな社会的便益を生み出すからだ。優れた指導者には、自己犠牲を覚悟で社会を格段によくしようとする気概がなければならない。だが、それを育成するのに、現状の経済学だけの教育はまったく不適である。経済学にはそのための思想や原理が皆無で、むしろそれを萎えさせる私利追求の正当化という「毒」が含まれているからだ。 そもそも経済学には指導者が登場しない。そのため指導者がどうあるべきかという問題などは、考察の対象外になっている。経済学には会議や話し合いさえ登場しないのだ。経済学は組織論を欠いていると先に指摘したが、その性格がこのような結果として現れる。主流派経済学には企業の社会的使命や社会貢献などの概念もまったくない。 ついでに指摘すれば、意外にも経済学には昇進という概念もなく、どのような条件が満たされたときに、どのような社員を昇進させるか、という議論は経済学にない。ほとんどの日本の組織における指導者の選定は昇進の特殊例で、多くの指導者は下の地位から選抜されるはずだ。昇進は経済的に重要な「資源配分」であり、現実の組織で昇進が大きな関心事や策略の対象になるにもかかわらず、経済学に存在するのは個別の職能の市場で、必要な人材はそこで調達するという考え方だけである(労使関係論は昇進問題を扱うが、右のような問題意識をあまりもたない)。 経済学は深刻な欠陥を有することを、本評論は一貫して論じてきた。しかし、今日の経済学は人類が現時点までに辿り着いた経済に対する見方なので、経済を考える際に無視できない。それを知らなければ経済の見方は稚拙になろう。それを考慮して思考を発展させることが必要だ。 そのためそれを学ぶ者は、少なくとももう一つの分野も熱心に学んで、自分の頭のなかで経済学的思考を相対化した

経済学部は必要なのか(74) 二重学位と二重専攻の非金銭的便益

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二重学位と二重専攻の非金銭的便益  二重学位や二重専攻は明確に金額表示できない私的便益も生み出す。大学進学を希望する多くの高校生には、専攻すべき分野に関して迷いや不安があるに違いない。日本の多くの大学では四年間所属する学部が受験時に決定されてしまうからだ。この迷いや不安を大きく軽減することが、二分野を専攻することの第五の利益になる。 大学の専攻分野には、高校で学習する内容とほとんど関係のないものも少なくない。そのことがこの迷いや不安を増幅させている。経済学・法学・心理学・文化人類学・創成化学・生命科学・生態学などは、これに近い例であろう。ぼんやりとしたイメージをもつことができても、取り扱われる具体的な問題やそれに対する自分の適性などは、明確に知るのが難しい。 たとえ高校である程度学ぶ分野でも、大学の講義を十分に理解できて、希望する職業に就けるかが不安になることもあろう。実際のところ、受験数学が得意であった学生でも、数学科の講義について行けず、数学者になる希望を断念することは普通に起こる。受験英語が得意なために大学で英語を専攻しても、英語を使って国際的な仕事ができる可能性はそれほど高くない。 さらに、大学に入学してみないと、特定分野に関する具体的な就職情報が得られない場合もある。高校の教員と違って、大学の教員ならば、特定の専門分野の詳しい就職情報を提供できよう。また、入学後は先輩や同級生から就職情報を得ることも可能になる。  二重学位や二重専攻は、こうした迷いや不安に対処する有効な手段といえよう。大学に入学し、実際に何科目かを複数分野にわたって履修して、また教員や先輩・同級生と交流して、ようやく各分野の内容や自分の適性や将来就きうる職業を知ることができる場合が少なくないのだ。そうした後で自分の進路を決定することができる。二重学位や二重専攻は、単一専攻が生み出しうる失望感、専攻変更にともなう精神的・時間的費用、就職情報の収集費用などを大いに軽減するだろう。  一つの分野は職業のために専攻し、もう一つは趣味や職業能力の補強のために専攻するということもありうる(商学と映画など)。一方は壮大な体系をもつ学問分野で厳しい知的訓練を要求するが、他方は芸術的な分野で自由な発想を重視するため、学生は異なった知的刺激を体験できるという場合もあろう(物理学と美

自ら子どもを産み育てる意志が重要

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「こどもの日」を前に、総務省は四月一日時点の子どもの人数を推計した。それによると、子ども人口はピーク時 一九五四年の約半数になった。これはきわめて深刻な事態だ。 少子化の要因は多様だが、その一つは多くの人たちの考え方である。「自分の子供の数は自分で決める自由がある」と、ほとんどの人たちが教えられ考えている。個人の最も基本的な自由だと信じているかもしれない。しかしその根拠は薄弱であると私は考える。経済学的にも正当化が困難だ。その考え方は誤りだと私はあえて指摘したい。 日本人が減ってゆくと、日本語や日本文化による生活が次第に困難になる。日本語が十分に通じない人たちと生活しなければならないだろう。いずれは外国語による生活を強制される可能性さえある。価値観や生活習慣の異なる人たちが多くなると、彼らとの共存は非常に困難であろう。こうした困難が生じてくる変化は緩慢なので、ほとんどの人は現時点で実感できない。 日本語や日本文化による生活が可能な状態を維持することは、快適な環境を維持することと似ている。快適な環境を維持するために、国は環境省を創設し、個々の日本人や企業は法やマナーを守ってきた。つまり国の法的・財政的な政策や個々の主体の努力によって、優れた環境を維持してきたのである。 それと同様に、日本人が日本語や日本文化に基づく円滑で快適な生活を維持するためには、国の政策や個々の日本人の努力によって、人口減を食い止める必要があるのだ。現時点では、一組の夫婦が二人以上の子どもを産み育てることが必要といえよう。自分の子どもの数は、自分の都合で自由に決めてよいとはいえないのだ。 子供の数が一人以下の日本人は、日本語や日本文化による生活が可能な状態の維持 に十分に貢献しないで、その状態から得られる便益を享受していることになる。経済学的に表現すると、フリーライダーになっているのだ。 もちろん諸般の事情で一人以下の子供しか産み育てられない人たちもいる。そのような人たちは、金銭的な貢献やボランティア活動による貢献など、別の方法で人口増に貢献する必要があるといえよう。  人口減を食い止める方法は、雇用の安定化、女性の働き方の改善、保育所サービスの充実、家族制度の改善など、多数存在する。こうした方法を採用するとともに、個々の日本人が、自ら子どもを産み育てるという強

経済学部は必要なのか(73) 他学部における経済学の有用性

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他学部における経済学の有用性 経済学部以外の立場から、経済学との二重専攻の効果を検討してみたい。たとえば、法学を専攻する学生が経済学も専攻すると稼得は高まるのであろうか。厳密な意味では二重専攻といえないが、 米国の法律家(弁護士・裁判官など)で学部の専攻が経済学であった者は、他の専攻の者より平均して稼得が高いという分析結果がある ( Craft and Baker, 2003) 。 米国は法科大学院で本格的な法学教育を行うため、その学生の出身学部が多様だ。一九九三年のデータに基づいたこの分析によると、学部で経済学を専攻した者は(比較基準とした)政治学専攻者より、一二・七%高い稼得を得るという。そして経済学専攻者だけが有意に高い稼得を達成する。つまり、経済学専攻者以外の稼得は政治学専攻者と変わりがない。  経済学部卒業者は法科大学院入学試験 (Law School Admission Test) でトップクラスの得点を達成する( Niesdwiadomy, 1998 )ために、右の現象が発生するようにもみえる。しかし、同様に高得点を挙げる他分野専攻者の稼得は特に高くない。このことは、経済学部出身者の潜在的能力だけでなく、経済学という学問の内容が高稼得を生み出すことを示唆する。換言すれば、経済学部教育は他学部教育よりも、法律家に有用な知識を蓄積するのに役立つのだ。   今日の(米国の)法学の講義には、機会費用・取引費用・道徳的危険などの経済学用語が頻出するという。たしかに法的問題には、損害・費用・期待・危険・情報・競争などの経済学的な要素が重要となるものが多い。そのために、そうした概念に精通している経済学部出身者は、講義の理解や就職後の活動に有利なようだ。それだけでなく、経済学的な批判的思考や分析法なども、法学で重要となる論理的思考力や分析力を高めるであろう。  社会学や社会心理学などの経済学以外の社会科学分野でも経済学の知識が有用である、と私には感じられる。右で例示した 損害・費用・期待・危険・情報・競争をはじめとする経済学的な概念は、社会生活一般においても重要な役割を果たすからだ。とくに、社会学や社会心理学の分野で研究者を目指す者には、経済学に関するある程度深い体系的知識が必須といえよう。それに欠けるときわめて稚拙な論理展開をする可能性があ

経済学部は必要なのか(72) 二重専攻の金銭的便益

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二重専攻の金銭的便益  二分野専攻の第四の便益は私的な金銭的便益である。ここでは利用可能な米国の調査や分析の結果を検討してみたい。二〇〇 三 年のデータを使った Del Rossi and Hersch (2008) の分析によると、学部卒の二重専攻者は単一専攻者と比べて平均して二・三%多い稼得(収益)を得る。なお、この分析では専攻分野が大分類になっていて、経済学はビジネスのなかに分類されているため、経済学に絞った分析はされていない。  一般に二重専攻は、近い分野どうしであると効果があまりなく、隔たった分野を選んだ場合に大きな稼得効果が現れるようだ。ただビジネスと教育学だけが例外で、それぞれの分野内の二重専攻は単一専攻に比して一〇%と五%の稼得増を生み出すという。したがって、たとえば経済学と会計学を二重専攻すれば、いずれかだけを専攻した場合より稼得が一〇%ほど多くなると推察される。他方、ビジネスと理学の二 重専攻をすると、ビジネス単一専攻よりも稼得が 一〇 ~ 一六%高くなるという。  今回の「文系学部廃止論」に関連して特に問題とされたのは教育学部であった。それには少子化が関わっているが、右の米国の分析ではそれより多少意味深長な結果が出ている。すなわち、教育学の単一専攻は人文系単一専攻よりも稼得が一二%低い。さらに、ビジネス・工学・理学のいずれかと教育学(または人文学)の二重専攻をしても、前者の単一専攻より稼得が増えない。  二重専攻をすることによって稼得が増えるのは、基本的に数理的能力 (quantitative skills) の増大がなされる場合のようである。他の事情一定ならば数学力の高い個人の稼得が高いことは、既存のいくつかの研究によって明らかにされているが (Murnane, Willet, and Levy, 1995) 、この二重専攻に関する分析もその結論を補強しているといえよう。  二重専攻者の稼得が概して高くなる事実については、基本的に二つの理論が考えられる。一つは二重専攻が知識量と能力すなわち生産能力を増大させるという人的資本論であり、もう一つは二重専攻が個人のもつ知能や理解力や意欲を示すシグナルになるというシグナリング理論である。知能や理解力や意欲は外見から直接判定できないが、二重専攻のような達成困難なことを成し遂げた

経済学部は必要なのか(71) 学生の勉強量を増やす

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学生の勉強量を増やす 第三の便益は学生の不勉強を矯正できることである。明らかに二重学位を取得するためには多大な勉強量が必要で、第二章でみたような不勉強では取得できない。そのため、有力経済学部で二重学位が目標になれば、学生の目の色は一変するはずだ。そのような猛勉強を経験した若者は、今より有能な指導者になるだろう。私は有力経済学部に学生の二重学位を奨励するよう強く要望したい。また中堅大学に在籍する向学心旺盛な学生も二重学位に挑戦して、有力大学卒業者に負けない能力のあることを示してほしいと考える。 二重専攻の場合は、卒業に必要な単位数が一専攻の場合とほぼ同じなので、単位数だけからは勉強量の増大につながるかを断定できない。だが、そうなる可能性は高いといえよう。前述のように、二重専攻では類似の科目が少なくなり、不勉強であると単位が取得しにくくなる。それどころか、二重専攻は世界観を広げるので、学生の問題意識を高め、自主的な勉強の量を増大させる可能性が高い。 二分野専攻が、個人能力の点で実行可能かについても検討しておく必要があろう。二重専攻は米国で普通に行われているので、日本の学生でも実行可能なはずだ。実際、日本でも一部の大学では二重専攻が行われている。米国大学に関する調査結果によると、二重専攻をした学生の在学年数は、単一専攻の学生と変わらない (Del Rossi and Hersch, 2008) 。 二重学位の取得は大きな努力を要求するため容易でないはずだ。私は学部時代にそれに近いことを試みたが、きつい経験であった。二重学位や二重専攻の制度もない恵まれない環境で、自分なりに努力した経験である。私の学部時代の専攻は国際関係論であったが、経済学も勉強した。四年間で、前者の満たすべき単位を取得し、経済学の大学院入試にも合格したので、二重学位に近い体験をしたと考える(先述のように当時の大学院入試の倍率は高かった)。 学部時代に履修可能な経済学の科目も若干履修したが、とても十分ではなく、経済学の大部分は独学であった。教えてくれる人がいないこと、また疑問を抱いても質問できる人がいないことは、学問をする上で大変辛いことである。もし当時の私に二重学位の機会があったら、必ずそれを利用したはずだ。そして、ずっと容易に二分野の勉強ができたと思う。付言すれば、米国の大学院