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経済学部は必要なのか(43) 大学自治の実態

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大学自治の実態 実質的な意思決定が、教授会のような公の場の議論を通してではなく、非公式集団内で行われているのだ。こうした経済学者たちの行動原理は、独立した個人を前提とする自由主義と大きく異なる。彼らは、学内において独立した個人として振る舞っていないし、公共心を示してもいない。有力派閥に属する者は集団的に行動する一方で、そうでない者は彼らを恐れ、自分の意見を表明せずに、その方針に従っている。この集団的行動は、新古典派経済学と異なる原理で、集団の成員の自己利益を最大化しているといえよう。経済学者が論文や著書を通して公に描き上げる世界と、彼らが演じる現実世界が何と大きく相違することか。  なお右の集団行動は、国会議員の政党員の行動と一見似ている。だが決定的な相違は、政党がれっきとした公式集団であるのに対し、大学内の派閥は非公式集団であることで、そもそもだれがメンバーなのかさえ、派閥外の者には往々にして十分明らかでない。メンバーに有力者と協力者などの力の濃淡差がありうることも、部外者に派閥の構造がわかりにくい要因となろう。 そのため学内派閥は、メンバーが明らかな政党内派閥とさえも性質が異なる。名前は同じ派閥でも、大学のものは陰湿だ。親しそうに付き合っていた同僚が、実は主流派の協力者で、秘密を主流派に漏らしたり、主流派を通して間接的に攻撃してきたりすることもあろう。学内派閥は正常なコミュニケーションを阻害し、組織の効率性を著しく下げる。このことからも、それが公共性から大きく乖離していることが理解できよう。 教授会の重要な意思決定が、内部の不透明な派閥によって実質的になされているのだ。そこで追求されるのは派閥の利益であって、学部の利益といえない。派閥外の教員は軽視され、派閥に批判的な少数教員は嫌がらせを受け不利益を押し付けられる。そうした行動をとる派閥メンバーには公共心などみじんもない。それを黙認し服従している他の多くの教員にも、真の意味の公共心が欠けている。あるならば公の場で派閥の横暴を批判するはずだ。こうした日常の行動が、研究や教育で真の公共心を生み出すことはありえない。せいぜいお飾り程度のものしか生まれないだろう。学生に公共心が欠ける一因はここにある。 石原(二〇一四、二〇一五)や光本(二〇一五)のように、大学自治の重要性を強調したり、それを手放し

経済学部は必要なのか(42) 学内政治と公共心の程度

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学内政治と公共心の程度 今日の大学で教えられる経済学は、独立した個人を前提とする学問なので、それを信奉する経済学者にとっては、その考えに基づく活動が、最低限の公共心の発揮になるはずだ。にもかかわらず、彼らの学内行動はそれと似ても似つかない。学内に形成される非公式な人間関係に基づく行動がその例で、そこからも経済学者の公共心の程度を知ることが可能だ。 多くの経済学部(研究科)には、二、三割の教員からなる有力なグループないしは派閥があり、それが学部内の重要事項を実質的に決めている。そのグループのやり方を公に批判する少数の教員がいることもあるものの、多くの場合に無視されたり、問題児とレッテルを貼られて数の力で抑えつけられたりしてしまう。他の教員は有力グループの方針に黙々と従うだけだ。学部によっては有力グループより影響力の小さい別グループが形成されて、重要な件において前者に対抗する場合もある。前者は主流派、後者は非主流派とも呼ぶことができよう。  主流派や非主流派はれっきとした非公式集団(インフォーマル・グループ)であって、教授会においてなされる重要な意思決定の前に、集団内の意思統一を行い、そのメンバーは教授会で同一歩調をとる。有力グループは学部長(研究科長)を擁しているのが普通なので、会議の前に議題内容や新情報の入手が可能だ。そのメンバーは居酒屋や学部長室などで話し合ったり、電話で連絡し合ったりして、どのような決議にもっていくかを予め決めておく。  竹内(二〇〇七)が戦前の東大経済学部の様子を生々しく紹介している。「経済学部の多数派が形成される現場に立ち会った土方成美は、『あれは大正十四年のころだった』とつぎのように回顧している。当時の学部長の矢作栄蔵から中華料理店に招待を受けた。行ってみると、矢作学部長をはじめとして、山崎・河津・ 渡辺(銕蔵)・森(荘三郎)教授がいた。高野グループの上野・大内・舞出教授をはずした会合だった。そこで矢作学部長は次のようにいった。過日、高野グループの教授連の訪問を受けた。先生(矢作)が次の学部長再選を受諾しないでほしいという申し入れだった。自分たち(高野グループ)はこれから教授の入れ替えをやろうとおもっているので、先生が学部長にとどまると苦しい立場になるからというものだった。申し入れを受けた矢作は自分たちが防衛しないととん

経済学部は必要なのか(41) 採用人事に見られる公共心の程度

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採用人事に見られる公共心の程度  経済学の根本的な目的は、あるべき経済社会を解明することである。そのため、公共の場における経済学者の言動は、本人が論文や著書などで主張する内容を体現していなければならない。さもなければ、自身でさえ実行できないことを他者に要求していることになる。ところが、そのような言行不一致の経済学者がたいへん多い。  まず採用人事からみよう。それは学内で最も重要な人事の一つであって、学部や大学全体の利益を最大化するよう決められるべきである、と全経済学者が公式的に主張するはずだ。そしてそれに対する人事候補者の貢献は、主として彼の教育研究能力と他の組織成員に与えると予想される正負の影響によって推定されるべきことに関しても、異論はないだろう。  しかし、組織利益の最大化という公共心を発揮しないで、一教員ないしはごく少数の教員の個人的利益を最大化するように進められる人事が実際には多い。採用人事はしばしば同一分野ないしは近い分野の教員が中心になって行われるので、その教員の個人的利益が色濃く反映される傾向がある。そのために、能力不十分の者や、他の成員に害を与えることが分かっている者を、強引に採用することが起こりやすいのだ。  人事で個人的利益を優先しようとする誘因はきわめて強い。たとえば、人事で中心になる教員が以前から親しくしている個人を採用すると、科研などの研究資金の獲得が容易になる。個人よりもグループで申請したほうが、研究計画の採用確率や配分金額が大きいのだ。それどころか「お友達」を採用すると、職場が家族や同窓会のようになって楽しい毎日を過ごせる。 大学には近い分野の二、三人で決定できる事柄が多いことも、親しい個人を採用する強い誘因になるはずだ。大学院志願者の合否決定や、博士論文の教授会への提出の可否がその例といえよう。さらに学内政治では、一人の意見は正論でも尊重されないが、二人以上が支持する意見は無視されないという奇妙な慣行もある(意見の内容よりも人数が重要)。教授会等で同調行動のとれる親しい人間が傍にいることは、ストレスのないきわめて快適な職場を生み出す。 ちなみに大学院入試では、近い分野の二、三人の教師が共同で面接を行い、その評価が受験者の総合点のなかでかなり重視される(三人が面接する場合でも、二人の評価が高ければ、それが三