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経済学部は必要なのか(40) 学長や学部長の公共心も低下

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学長や学部長の公共心も低下  近年の学長(副学長)や学部長(研究科長)の公共心が著しく低いことに、多くの大学人が気づいている。かつては、一分野で顕著な学問的業績を挙げた人が、多くの人に懇請されて、学長などに就いたものだ。しかし、今では事情が大きく異なる。それらのポジションを手に入れるために、普段から戦略を練っている権力志向の強い者が就く。操り人形の場合もある。学問的業績は関係ない。業績が学内最低レベルなのに学長になった者もいる。  そうした人たちに公共心などはない。権力志向の強い人には公共心がないのだ。彼らにとって重要なのは、自分や仲間の利益である。「長」の付くポジションを投票や推薦によって獲得するには、仲間(通常は十人ほど)が必要なので、彼らの利益を図ることも重要にならざるをえない。ポジションを手に入れた後も、学内政治を円滑に行うためには仲間の支援が必要になる。仲間は重要問題の相談相手になったり、他の人たちに働きかけてくれる「運動員」になったりするのだ。  少し前にある大学で、学長や副学長を経験した教員の定年退職年齢は自動的に引き上げられる案が、学長らの提案として恥ずかしげもなく教授会に出されたことがあった。これほどあからさまな私欲の表明に、多くの教員が呆れたのではないかと推察される。さすがに、その提案は拒否されたが、学長や副学長の内面や公共心の程度を示唆する現象として興味深い。  某経済学部において、海外の研究者を有給の教員として短期間招聘する制度が、執行部の提案によって新設された。そして真っ先に招聘したのは、その制度を作った執行部の一員が留学中に指導を受けた教授である。自分の指導教授に対しては私的に行うべき「お返し」を、権力と何百万円かの公金を使って行ったのだ。給料を支給されながら日本に何ヵ月か滞在できることは、きわめて魅力的な経験で、この上ない「お返し」になろう。  自分の利益は後回しにするのが、真のリーダーの態度のはずだ。それを最初に確保する行為は、沈みゆく汽船の船長が乗客より先に避難するのと似ている。自己犠牲と正反対の態度といえよう。かつての日本人は、公の場で私利を追求することに、恥を覚えたものだ。しかし今日では、大学で長と名のつくポジションにいる人間も、そうではなくなっている。  前述のごとく、国立大学の学長や副学長の権力は

経済学部は必要なのか(39) 御用学者の公共心

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御用学者の公共心 大学教師の公共心に関連しては、「御用学者」も当然問題になろう。多くの大学教師が政府の審議会・有識者会議などの委員になりたがる。声がかかれば嬉々として受け、最終的には政府の意向を支持するようだ。「こういう別の考えもありますが、仕方ありませんね。」と述べるのが、御用学者を依頼され続けるための秘訣だといわれる。 ネット上には「御用学者の一覧」なども出ており、そのなかには「人文社会科学に立脚する幅広い教養」を重視する石弘光元一橋大学学長や、独立自尊を標榜する慶應義塾大学の清家篤元塾長などの名前も見られる。吉川洋元東大教授もネット上で多くの人に財務省の御用学者とみなされているようだ。彼はケインズ主義者だと思われていたが、小泉政権に協力して新自由主義的な政策に加担して、多くの人を驚かせた。 藤井聡京大 教授は顕著な言動不一致で疑問を感じさせたが、やはりネットなどで国交省の 御用学者といわれている。 人社系教育の最も重要な役割の一つは、批判精神の育成であることを、ここまでに議論してきた。御用学者は一見国民のために奉仕しているようで、実際は政府ないしは官庁の意向を汲んで行動しているにすぎない。さもなければ早晩首になる。こうした生き方は、権力と距離を置くべき批判精神や公共心と正反対だ。御用学者になるためには、自分の年来の見解を隠すことも憚らない。政府の考えが変わると、御用学者は自分の意見を変える。彼らのなかには、学長などの重職に就いている者も少なくない(強い権力志向のための相関)。彼らが政府の仕事で大学の会議を欠席・遅刻するようになると、重大な職務怠慢といえよう。 権力は人間を強く引きつける魔力をもつ。そのため、多くの人間は権力を欲したり、権力の側につくことを選んだりする。批判精神とは突き詰めると権力や権威を批判する態度であって、こうした人間の性向を戒める考え方にほかならない。しかし人社系の人間でありながら、使われていることにも気づかずに、多くの経済学者は権力に取り込まれたり摺り寄ったりしてしまう。官僚がはっきりと「御用学者を使って何々をする」というのを私は聞いたことがある。 経済学者が日本人の幸福を考えるということは、国民全体にとっての最善を探究することにほかならない。そのためには権力や特定の利益集団と距離を保つことが必要で、それが経済学者

経済学部は必要なのか(38) 経済学教授の公共心

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経済学教授の公共心  二〇一五年に東大は「東京大学ビジョン二〇二〇」を公表した。そこには、「学部・大学院を通じて、東京大学の教育理念である『世界的視野をもった市民的エリート』(東京大学憲章)の養成を基本としつつ、公共的な視点から主体的に行動し新たな価値創造に挑む『知のプロフェッショナル』の育成をはかります。」と謳われている。 さらに、「二一世紀の地球社会においては、大学の果たすべき社会的な役割がこれまでになく大きくなっています。それゆえ、東京大学も、『学問の自由』を堅持しながら社会における多様な利益の増進に貢献する責務を負っています。そしてそれは、何よりも日本と世界における真の『公共性』の構築と強化への貢献を通じて行われるべきものです。」ともいう。 こうした教育や研究を行うためには、まず教師自身に強い公共心が必要だ。さもなければ公共性の構築と強化に貢献できる人材の育成や研究など不可能だからである。強い公共心とは、自分に大きな不利益が生じる場合でも、公共性を重視した判断を行い実行する精神にほかならない。進んで自己を犠牲にする精神だ。 研究面で東大は日本一優遇されているので、その教員、特に教授は全力で日本を支えていくほどの使命感を持つべきである。東大卒業者も、在学中に日本で最も贅沢な教育を受けたのであるから、どこで働こうと最大限の公共心を発揮しなければならない。程度の差こそあれ、他の「一流大学」卒業生も同様である。 はたして、彼らは日本国民のために日々粉骨砕身しているだろうか。経済学者に関するかぎり、私はそのような人のいることを見たことも聞いたこともない。三十数年にわたる私の教師人生の間に、率先して不正を糾弾したり正義を実行したりするほど強い公共心・批判精神をもつ経済学者を見たことがないのだ。別言すれば、思わず拍手喝采をしたくなるような正義感溢れる経済学者の行動を一度も見たことがない。おそらく経済学教師は、全分野の大学教師のなかで最も公共心が希薄ではないか、と私は推察している。この点は次章でも問題にしたい。 東大出身のある有名な経済学教授は、専門の論文や著書をほとんど書かずに、一般向けの本(経済学と無関係の本も含む)を多数出して莫大な富を築いた。講義の準備はほとんどしなかったようで、出欠調査に多大な時間を使い、講義中につまずくと十分でも二十分

経済学部は必要なのか(37) 今日の学生の倫理感

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第四章 経済学部の学生と教師の公共心 今日の学生の倫理感  公共心の第一歩は他者に対する配慮であろうが、それに欠ける学生が今日では多すぎる。見聞した例を挙げておきたい。教師が推薦書を書いて渡しても、黙って受け取り一言の礼もいわない学生がいる。事務室で成績証明書を受け取るような気なのだろう(事務室でも軽く礼をいうべきだ)。推薦書の執筆は教師の義務でないが、普通はできるだけよく書こうとするだろう。多額の奨学金のための推薦書を書いても、採用されたことを教師に知らせない女子ゼミ生がいた。 海外留学用の推薦書の執筆はたいへん面倒だ。各大学のホームページにアクセスし、大学ごとに異なる書式に合わせて、多数の項目に記入しなければならない。長時間緊張して疲れる。指導教員が大学院生の希望する約 三〇の 大学に推薦書を送ったけれど、彼はどの大学から入学許可が来たかを自分からは教員に知らせなかった。ゼミで顔を合わせても長い間無言だったので、教師が聞くとようやく結果を告げる始末だ。教員の労力をこれだけ使ったら、研究室に出向いて入学許可通知の報告をし、丁重な礼をいうのが当然ではないか。留学して落ち着いたら近況報告ぐらいはしてもよいと思われるが、電子メールで容易にできるのに、それさえもなかった。 教師から推薦書を受け取ったら、すべては終わりと学生は考えているようだ。その一方、卒業して十数年も音信不通だった元ゼミ生が、海外から電子メールで推薦書を依頼してくる場合もあった。商品券をもって研究室に推薦書の依頼に来た卒業生もいる(当然受け取らない)。  有力大学院には、研究者などの公共性を有する職業を目指して多くの学生が入学してくる。しかし彼らには倫理感の欠如した者が多い。最近の大学院生の実態を紹介しておきたい。  大学院ではゼミにおける研究発表がたいへん重要で、通常は何ヵ月も前に発表の日程を決めておく。各人はその日程に合わせて猛勉強し、発表の準備をすることになる。にもかかわらず、何の連絡もなく、予定日に発表者が現れないことがあった。こんなことをするのは、小学生でも気が引けるのではなかろうか。一般社会でそれをしたら、その瞬間に地位が消えてなくなるだろう。ゼミの教師が後日その学生に理由を聞いても、うつむいて黙っているだけであった。  ある大学院ゼミ生は、学期の途中で突如とし

経済学部は必要なのか(36) 公共心を向上させる教育研究

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公共心を向上させる教育研究  日本人に顕著な向学心や勤勉の精神は、強い公共心と一体になっていた。かつての多くの日本人は、社会に役立つ仕事をしよう、苦しんでいる人たちを助けよう、日本を輝く国にしようと念じながら勉強し働いたのだ。教養主義が学生を強く引きつけたのは、それがこうした公共心の根本に訴えたからである。彼らは私的利益よりも社会的利益すなわち公共性を重視して勉学に励み、金儲けのための勉強を蔑んだ。  しかし、今日では公共心の低下が極度に進み、向学心や勤勉の精神は一般に希薄になってしまった。それが第二章でみた深刻な不勉強の主因である。もし日本人が私利のために勉強するのであれば、時代とともに私利追求を容認する度合いが高まってきているので、学生はいっそう勉強熱心になっているはずだ。現実はその逆であることを考慮すると、公共心が向学心のなかで大きな割合を占めることがわかる。 学問は社会のため他者のためにするのが基本だ。今の日本の学生が不勉強なのは、私利追求の度合いが強く、勉強しても自己利益にならないことを感じているからだろう。確かにほとんどの人文社会科学の教科書を開いても、金儲けの方法の説明を見出すことはできない。  ここまでにわれわれは、人文社会科学が社会にとっていかに重要であるかを説く見解を検討してきた。人文社会科学が広い視野や判断力そして特に批判精神を備えた人間を生み出し、社会を優れた状態に導くといういくつかの見解である。新聞や雑誌や書籍でこれらの見解を読んだ人たちのなかには、人文社会科学の教育を受けた人間が、批判精神や広い視野や判断力などを備えていると思い込んでいる人もいるかもしれない。 しかし、右で触れた何人かの文系人間が示唆するように、それは幻想にすぎない。現実のほとんどの文系人間には、批判精神や広い視野や判断力などが備わっていないのである。そうした見解を表明した人たち自身に、特に批判精神が備わっているのか、また重要な場面でそれを発揮してきたのか、さらに批判者に適切な対応をしてきたのかを、詳しく説明してもらいたいものだ。  私の短くない教師人生において、「日本を素晴らしい国にしたい」というような公共心を私に告げた人社系学生は一人もいなかった。それらしき態度を示した者さえいない。ほとんどの学生は楽な人生が約束される就職ができさえすればよ