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経済学部は必要なのか(64) グローバル人材の育成という虚構

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グローバル人材の育成という虚構  米国は、思考様式の一種である経済学だけでなく、思考の表現手段である英語も使って、世界支配を企んでおり、英語圏の国々もそれに便乗している。大学で英語による講義や海外留学が奨励されているのはその影響のためだ。グローバル人材が今日の教育のキーワードになっている。  しかし、ほとんどの日本人にとって英語はマスターするのが不可能な言語で、習得しようとして多大な資源を費やすことは浪費にほかならない。無駄な学習時間を他の学習に向ければ、日本はもっと豊かになれる。英語教育に今以上の労力を使えば、日本経済の地位は低下しよう。  典型的なグローバル人材としては、四人前後の英米人グループの中に加わって自由に討議できる能力を、多くの日本人が思い描くかもしれない。だが、日本の高校や大学で英語が抜群にでき、二十歳代に四年ほど英米に留学したとしても、そうした能力を獲得するのはまず不可能だ。例外はいるかもしれないが、十万人に一人もいないと推察される。ただし、小学生低学年頃から英語圏で適切な教育を受ければ、事情は異なるであろう。 米国の大学で二十年以上教えていた日本人教授が英語で話すのを、私は米国留学中に見たことがある。意外にも、彼らの英語はとても流暢といえず、発音や抑揚も日本人訛りから抜けていなかった。日本人が英語に弱い理由の一つは、日本で英語を使う必要性が低いことであるが、それが高くてもあまり流暢にはなれないのだ。かつて、著名な日本人同時通訳者に「英語の冠詞の使用法が理解できますか」と質問したことがある。すると、「冠詞はどうしても正確な使い方が分からない」という答えが返ってきた。 日本人にとって英語がほぼ習得不可能な言語であるのは、主として次のような理由のためである。語順や発想法が日本語とほぼ逆で日本人は滑らかに話せない。発音も日本語よりは複雑である。英語の単語数が独語や仏語より格段に多いだけでなく、句動詞やイディオムも多数存在して、日本人がそれらを記憶したり類義語を区別したりすることが不可能に近い(欧語間には単語の類似性がある)。英語独特の強弱のある話し方が、日本人には聞き取りにくい。日本人が英語を話すのは、英米人が日本語を話すよりも難しいといえよう。  言語自体の問題のほかに、日本には外国人と英語を自然に話す機会や環境がほとんどな

経済学部は必要なのか(63) 拝金主義の進行や文化的劣化

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拝金主義の進行や文化的劣化  過去二十数年の日本経済は誠に冴えない。実質 GDP は、バブル崩壊後の一九九二年から二〇〇二年までの十年間に八・一%、二〇一二年までの次の十年間に八・六%成長したにすぎない。米国の値はそれぞれ三九・三%と一八・九%、ドイツは一五・七%と一一・八%である。日本の実績がいかに見劣りすることか。新自由主義は日本経済を回復させられなかった。 文化的劣化はもっと深刻だ。失われた GDP は努力や技術革新で取り返すことも可能だが、劣化した文化を回復させることは不可能に近いからである。文化の主要部分は公共的な精神なので、志をもつ個人が個別に努力しても、維持したり元通りにしたりするのが困難だ。劣化した社会では、個別に公共心を発揮しても利用されるだけである。 米国的な物質文明の影響によって、日本社会に拝金主義も浸透してきた。日本人はもともと「金は汚い」と考えていたが、今では金さえあれば何でも可能になると多くの人が感じている。非倫理的・非合法的手段を使ってでも金を儲けようとする人が多くなった。振り込め詐欺が頻発するようになったのは今世紀に入ってからだ。 企業不祥事の頻発も文化的劣化の例である。一九九〇年代中頃に頻発した事例のほとんどは組織ぐるみであった。日本人が組織内で悪事を働くときは、長である人物を中心とする申し合せ(結託)がほぼ例外なく行われることを、私は以前に指摘したことがある(荒井、二〇〇〇 a )。組織は文化的な存在であって、このような不祥事の頻発は文化的劣化にほかならない。 もっと最近の二〇一五年には、東芝が数年にわたり「不適切会計」をしていたことや、旭化成建材が 杭打ち データの改竄を多数回していたことが発覚した。東洋ゴムによる免震ゴムのデータ改竄や化血研による血液製剤の不正も明らかになって、多くの人がうんざりしたことだろう。これらも組織ぐるみだ。拝金主義と個人的な罪の意識を避ける集団主義とが結びついて発生した。第一章で触れた神戸製鋼所の不祥事も同様である。 二〇二〇年開催予定の東京オリンピック・パラリンピックに関連しても、文化的劣化が表面化した。いったん採用されたエンブレムやメイン・スタジアムの案が白紙撤回され再募集されたのだ。世界的に注目度の高い案件で、有識者の選考委員が当事者意識をもって真剣に選考しなかったこ

経済学部は必要なのか(62) 日本精神の変容と社会科学者の責任

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日本精神の変容と社会科学者の責任  米国と比較すると、日本の伝統文化は「遠慮」や「思いやり」だけでなく、「誠実」や「勤勉」などの価値によっても特徴づけられる。だが、日本社会の近年の変容は、日本を愛する人たちを強く嘆かせるほど酷いといえよう。日本の長所が次々と融解し去っている。「遠慮」や「思いやり」を示す人たちを利用して金や権力を手に入れる者が跋扈するようになった。「誠実」は裏切りや嘲笑の対象になり、「勤勉」よりは手短な金儲けが持て囃されている。寛恕も利用される世の中になったのだ。自己利益を追求して自由に行動することが当然とされ、戦略的に行動し、楽をして利益を上げることを多くの人が考えている。現実が経済学の世界に近づいてきたのだ。 日本は伝統的に他者に対する心の温かみを尊重し、信頼を醸成する社会的工夫をして、世界で称賛される文化を築くとともに、稀に見る経済的成果を挙げてきた。日本の歴史のなかには、思いやり文化を支えた数知れない人たちや、命を懸けて信頼に応えた何百万という人たちがいる。無数の日本人の血の滲む努力によって、わが国の文化は築かれ維持されたのだ。その長所や美点がいとも簡単に崩れ去ろうとしている。  「自由」や「独立」や「自己利益」を重視する考え方は、日本の近代化とともに徐々に浸透したが、一九九〇年代以降の新自由主義化と労働市場の流動化の過程で浸透が加速し、心理的歯止めを越えた。企業の雇用調整は「自由」とみなされ、社員に対する「思いやり」は消し飛んだ。意に反して企業を放り出され恨みをもった社員が、中韓の企業に利用されて、技術流出を促進したと私は推察する。サムスン電子の日本人顧問団は、目星をつけた日本半導体メーカーの技術者に連絡して、技術情報を一件一〇〇万円ほどで買ったようだ(湯之上、二〇一三)。  日本社会の変容に対しては、社会科学者に重大な社会的責任がある。まず、バブルを批判せずに放置した経済学者の責任はきわめて重い。「市場は効率的である」と説く「宗教」を無批判的に信じたのだ。そして、流動的な労働市場が効率的であると主張して、首切りを行う企業に「免罪符」を与え制度変更を促進した者の責任はもっと重い。社会心理学者の山岸(一九九八)を含む「アメリカ教」の信者たちである。労働市場の流動化を勧めるならば、流動的な市場に自ら身を投じて垂範すべきである

経済学部は必要なのか(61) 世界支配のプロセス

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世界支配のプロセス 歴史上の米英の世界支配戦略は実に巧妙で、多くの人たちが気づかないうちに嵌ってしまう。日本人経済学者が米国化する過程も例外ではない。まず彼らは、学部生時代に経済学である程度良好な成績を挙げる。他の学生よりは多少学力があり、経済学を少しは面白いと感じる人たちなのだろう。彼らは経済の「科学的な」分析手法を学んでいると思い込む。経済学はとても科学といえないので、この段階ですでに戦略に嵌ったといえよう。そして、世界的に著名な経済学者のほとんどが米国人あるいは米国籍だと知って、米国に対する憧れをもち、多くが米国留学をする。 特に学界を主導したいと考える者は、大学に職を得てから、国際学術誌に自分の論文が掲載されるよう必死の努力をするに違いない。できれば有能な共著者(望むらくは英米人)と論文を書こうと心掛ける。学術誌に採用される確率は単著より共著のほうが格段に高いからだ。しかし、共著論文の執筆は、しばしば妥協をともなうので、一著者の独自の思考を抑圧し、米国的思考の受容を促進する。世界で支配的な思考は最終的な妥協点になりやすいからだ。そもそも米国的思考から外れた研究者は、共著者を見つけるのも相対的に困難だろう。 経済学の有力な国際学術雑誌のほとんどが米国で発刊されており、投稿論文が掲載されるための競争は激しい(競争倍率はほぼ十倍あるいはそれ以上)。編集者や査読者の多くは米国人や米国文化を内面化した者なので、必然的に米国的思考に基づく論文が多く採用され掲載される。そのため論文の掲載を切望する者は、四苦八苦して自国文化を捨て米国文化を取り入れて、編集者や査読者に受け入れられる論文を書こうとするはずだ。 この事態こそが米国的な価値の浸透過程の核心部分である。宗主国の気に入るように振る舞う植民地人の行動と酷似しているではないか。宗教グループのメンバーが、苦労してグループの価値を全面的に内面化しようとするのとも似ている。「アメリカ人のように振る舞え」という前述のアドバイスが、経済学徒の心に突き刺さるであろう。 国際学術誌に投稿論文が採用されるのは容易でないので、一部の人間は手段を選ばずに目的を達しようとするようだ。米国人査読者の優越感をくすぐって採用確率を高めるために、事実を押し曲げて日本を貶める内容を書いている、と推察される日本人社会心理学の論文を

経済学部は必要なのか(60) 経済学と米国の支配戦略

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経済学と米国の支配戦略 このような経済学者が主導して、新古典派経済学を中心とした教科書を使って大学で教えれば、多くの学生も米国を理想化し、日本人としてのアイデンティティを失っていくだろう。日本の経済学部は、日本人を「アメリカ教」に改宗する「教会」になる。幸か不幸か大多数の経済学部生は不勉強なので、この改宗は完全に成功しているといえないが、メディアなどの大学教育以外の要因も作用して、社会一般の改宗活動はかなりの成果を挙げているといえよう。改宗者に求められるのは、細かい論理を操ることよりも、単純な結論を唱えることだ。新自由主義に反対する若者をほとんど見ないことも、日本社会の米国化と精神的植民地化が大きく進んでいる証拠になろう。 もともとの日本文化は欧米の文化と明らかに異なる。今日の文明は中東から地球の東西両方向に進展した結果なので、日米の文化差は地球上でもっとも大きいといえるほどだ。少なからざる人文社会科学の分野が、この差を自明なこととして論を展開している。 この事実に反して、民族間に行動原理の差はないとみなし、異なる文化の経済に同じ原理を適用しようとするのが、経済学の基本哲学だ。たしかに、新古典派経済学のイメージに近い穀物市場や外国為替市場では、あまり差がないだろう。しかし教育・介護・不動産などのように、信頼などの文化的要因が重要となる市場は多く、そこでは民族間で異なった原理が作用する傾向がある。さらに、企業や家庭や学校の中などでは文化が人間行動に強く影響し、民族間で事情が大分異なる。 新古典派経済学は完備契約を仮定し、さらに市場以外の場における人間活動の分析を回避することによって、文化差が経済に与える影響を隠蔽してきた。人文社会学と一口でいっても、その内部では根本において矛盾した主張がなされており、統一されていない。自然科学内にも多数の分野があるものの、人社系ほどの矛盾は見られないであろう。 今日の経済学教育が果たす重要な役割の一つは、米国が尊重する価値を受容する人間の育成だ。そこでは自由・独立・自己利益などの価値しか問題にされない。組織と比べて市場で重視される価値で、私は市場的価値と呼ぶ(荒井、二〇〇一)。米国では市場以外でもこれらの価値の尊重される傾向が強い。アメリカ教としての経済学は、米国の支配戦略の一手段として、他国の文化を効率の阻害

経済学部は必要なのか(59) 経済学と米国文化

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第六章 経済学による米国の世界支配 経済学と米国文化  将来の学長職を狙っていると推察される経済学教授が、大学の公の場で他の教員に向かって、英語による講義のデモンストレーションを行ったことがある。その際、経済学に強くなる秘訣にも触れて、「アメリカ人のように振る舞え」とアドバイスした。人生を長く経験すると驚くことに遭遇するが、これも私が呆気にとられるほど驚いた例の一つだ。 本人は米国に留学してから国際学術誌に論文を発表しており、それを踏まえて経済学に対する心構えを伝授したつもりだったのだろう。米国人を模範として、同じように考え行動すれば、研究業績が挙がり、英語でも円滑に講義ができるようになる、と彼はいいたかったに違いない。 だが、このアドバイスから、その教授の内面が知れてしまった。経済学を多少勉強したことのある者ならば、それを聞いたときに、その意味が「無理をしてでもアメリカ人のようになれ」ということであると理解できるはずだ。その教授自身は、米国人に近づこうと考え、困難に耐えながら努力してきたのであろう。改宗の努力にほかならない。そうした経験が「私は苦労して改宗したので、あなたもそうしなさい」というアドバイスになったのだ。 このアドバイスは、「新古典派経済学には宗教の要素がある」と先に指摘したこととも関係する。大学で教えられている経済学一般は、米国文化を色濃く反映した「アメリカ教」ともいえそうな宗教的要素を含む。特定の「宗教」に関して多弁になり著書や論文を多く書ける人間は、それを強く内面化して常にそのことを考えているはずだ。「経済学で多くの業績を挙げたいと思うならばアメリカ教を信じよ」とその教授は諭したともいえる。国際学術誌に多くの論文を掲載することが経済学者の最も重要な職務であれば、これは適切なアドバイスといえよう。  経済学において問題とされる価値は、米国人の好む「自由」や「独立」であって、日本の伝統文化の「遠慮」や「思いやり」ではない。標準的な経済学の教科書に後者の概念は見られない。日常的にはきわめて重要な「信頼」の概念さえないことを、私は他の著書で指摘したことがある。経済学は世界の一部地域の文化を色濃く反映した「宗教」なのだ。日本文化が今日の経済学の教育と研究の障害になることが理解できよう。日本人がいまだにノーベル経済学賞を受賞してい

経済学部は必要なのか(58) 優れた市民を育成する経済学教育を

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優れた市民を育成する経済学教育を  本章は経済学の内容や経済学教育の問題点を検討してきた。繰り返し強調すると、新古典派経済学のように、社会の一部分の効率性のみを論じることはきわめて危険である。なぜなら、一部分の効率性を高めることによって、他の部分の効率性を損なうからだ。経済社会の一部分のみに焦点を当てた研究は社会的に誤った結論に到達し、その教育を通して多数の人間の思考を誤らせる。 多くの場合に、一部分の最適化は全体の最適化に寄与しない。二つの関数の和を最大化する点は、それぞれの関数を最大化する点と異なる。脳卒中や心筋梗塞の予防のために血圧を下げる努力ばかりしていると、癌や急性腎障害を誘発する確率が高まってしまう。人間にとって重要なのは体全体の健康であるように、経済社会にとって重要なのは、そのすべての部分を考慮した全体効率性にほかならない。 経済学徒にはエゴイストが多い、という実験結果が報告されている( Marwell and Ames, 1981) 。エゴイストが経済学部に引きつけられることも考えられるが、種々の実験結果を総合すると、経済学部がエゴイストを生産しているといえそうだ( Frank, Gilovich, and Regan, 1993; 荒井、一九九七)。私利追求が資源配分の効率性を生み出すという教育を受ければ、多くの人間はエゴイストになり、他のエゴイストに対しても無批判的になろう。 今から一世紀半も昔に、ジョン・スチュアート・ミルが、これと関連したことを学生に述べていて興味深い(ミル、二〇一一)。「経済学を学んだところで、諸君が、もともと利己的あるいは冷酷でない限り、決して利己的で冷酷な人間になることはありません。」と彼はいう。特に実験を行ったわけではなく、自分の経験だけからこう述べているのであろう。新自由主義に取り付かれた今日の社会をミルが観察していれば、反対のことを述べた可能性がある。 本章の考察より、今日の経済学教育は優れたリーダーや公共心のある人間を生み出さないことが理解できよう。現行の経済学教育が人間を倫理的にすることは絶対にありえない。経済学教育は他者を裏切るエゴイストを生み出す傾向が強いのだ。経済学者には、日本の現状や将来を心の底から心配する者がきわめて少ない、と私には思われる。「我こそが日本を支える」というような

経済学部は必要なのか(57) 人間関係が生み出す幸福

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人間関係が生み出す幸福 新古典派経済学が歪んだ世界観を作り出す第三の理論的理由は、それが幸福の源泉として物的満足のみを考えていることにある。消費者の満足感は効用関数と呼ばれる関数の値によって評価されるが、その関数では市場で取引される財やサービスの消費量しか問題にされない。つまり個人の幸福は、それのみによって決まるとされているのだ。物質的な満足を重視する米国文化にふさわしい考え方である。 所得水準が低い段階では、そうした消費がきわめて重要であろう。しかし、先進国になって基本的な衣食住が満たされると、人間関係の生み出す幸福が相対的に重要になる、と私には思われる。家族の温かさ、親族の安心感、職場の同僚の協力や支援、友人の親しみ、社会一般の人たちの親切などが、われわれをこの上なく幸福にするはずだ。しかし、これらの幸福要因は効用関数で考慮されておらず、幸福を生み出すと考えられていない。厚生経済学の第一命題はこうした幸福要因を無視した主張なのだ。 この事実は新古典派経済学の重大な欠陥を意味する。現実社会でその命題の実現を図ろうとすると、右記のような幸福を生み出す人間関係が犠牲になる可能性が高いからだ。それらは個人の自由をある程度抑制することによって維持されるため、個人的自由のみが強調されると消失してしまう。また、同経済学の組織論の空白を突いて、成果主義のごとき自由競争的な制度が組織に導入されると、組織内の信頼や協力などの正常な人間関係が破壊される。これらの点において日本の現実は確かに深刻な状態に陥っている、と大多数の人が認めるであろう。 新古典派経済学は、「法を犯さないかぎり何をするのも自由で、そうした思考や行動が経済の効率性を達成する」という基本思想を有する。このような誤りの思想(荒井、二〇〇九)のために、私欲の強い一部の人たちによって、貴重な人間関係が利用され破壊されてきた。「騙される者が悪い」というような、きわめて非日本的な考え方も生まれつつある。人間が他者のために生き感謝されることによって実感できる深い幸福感は、新古典派経済学の浸透とともに、教えられることも話題にされることもなくなった。嘲笑の対象にさえなっている。過去二世紀ほどにわたって日本の伝統的な価値が蚕食される過程で、どれだけ多くの日本人が辛い思いをしてきたことだろう。そしてどれだけ多くの「日