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経済学部は必要なのか(1) 予告

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 このブログにおいて、評論『経済学部は必要なのか―「文系学部廃止論」と大学の将来』を連載することにしました。週一回以上の頻度の長期連載になると予想しております。  過去二、三年の間に「文系学部廃止論」が話題になりました。この評論では文系学部のなかから経済学部を選び出し、主にその存在意義を検討して、経済学教育および大学教育一般を今後どのようにしたらよいかを考えたいと思います。関連して一般教養教育の意義も論じることになるでしょう。  この評論を日本語の表現に関する筆者独自の挑戦の場にもしたいと考えています。言語としての日本語には、二つの主要な短所があると私は以前から考えていました。一つは関係詞がないことですが、この問題の解決はかなり困難です。もう一つは文末の表現が単調になることで、この第二の短所の改善を試みることが、今回の挑戦にほかなりません。すなわち「である調」の場合に、「る」で終わる文が多くなりますが、そのような文が連続しないようにするつもりです。これは今までに誰も行ったことのない大胆な挑戦といえるかもしれません。  なおブログにおける連載という評論公開方法のために、読者のご批判やご意見を随時反映させて連載を継続することも可能です。読者の許可があれば、実名や仮名を使わせていただくかもしれません。こうした評論の展開はブログという公開方法の興味深い特色になるでしょう。ただしコメントの採用は、あくまで筆者の主観で判断させていただくことになります。  ご期待ください。 コメントをどうぞ kazuhiro.arai888@gmail.com 荒井一博のホームページ  http://araikazuhiro.world.coocan.jp/

平成30年3月17日 外国人観光客に日本を楽しんでもらう方法

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 外国人観光客が増えている。 2020 年の東京オリンピックの際は、もっと多くなるであろう。それに対応して、彼らに日本滞在を楽しんでもらう工夫がさまざまに考案されている。その一環として、彼らの情報収集を促進する簡単な方法を提案してみたい。  かつて中国を旅行したとき、駅などで見かけた一般人に英語で話しかけてもまったく通じず辛い思いをしたことがある。外国人が日本でそれほど辛い思いはしないと推察するが、それでも外国人の質問に対して、理解できるように答えられる日本人は少数であろう。問題は、外国語を使って話せる日本人を、外国人がどのように識別できるかである。  解決法は簡単だ。外国語で説明する意思のある個人の服装の一部に、それを目立つように表示すればよい。例えば「○○語で質問してください」と、その言語で書いた腕章を付ければよい。Tシャツの背にそう書いてもよい。  外国人と英語その他の言語で話したいと思っている日本人は、少なからずいるであろう。英語などを熱心に学んでいる大学生や、定年退職した海外滞在経験者などである。そうした日本人にとっても、外国語を話すことは言語学習や言語能力維持の助けになるであろう。  上記のような腕章やTシャツは、衣料品店や百円ショップなどで販売可能だ。観光政策として、政府はこの方法の普及をはかったり、外国人観光客に周知したりできる。外国語の種類や能力レベルによって、腕章などの色分けやデザインによる区分をすることも考えられよう。ただし、以上はあくまで無報酬のボランティア活動である。   ご意見・ご感想をご自由にどうぞ。 連絡先  kazuhiro.arai888@gmail.com 荒井一博のホームページ  http://araikazuhiro.world.coocan.jp/ 荒井一博のブログ 海外向け  https://araikazuhiroen.blogspot.jp/ 荒井一博のツイッター 国内向け  https://twitter.com/araikazuhiro88 海外向け  https://twitter.com/araikazuhiroe88

平成30年1月7日 日本の英語教育をどうすべきか

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 比較的若い年齢から真面目に英語を学習すれば、将来は英米人と自由に会話や議論ができるようになる、と文科省の官僚をはじめ多くの日本人が信じているかもしれない。こうした信念に基づいて、今日の小中高大の英語教育がなされていると推察される。 しかしこの信念は完全な誤りであることを、ここで指摘しておきたい。私自身が多大な時間を英語学習に投入し、また日本人としては英語のできる多くの人たちを観察してきた結果、こうした確信を抱くようになった。 そのため今日の日本の英語教育は、努力と資源の壮大な無駄遣いを生み出す強制労働にすぎず、その効果は小さいと考えている。こう指摘され以下の私の主張を知れば、賛成する日本人も多いであろう。私の考えの要点を記しておきたい。  まず、英語がたいへん複雑で外国人にとって習得困難な言語であることを認識する必要がある。特に、印欧語に属さない日本語を母語に持つ日本人には習得がきわめて困難だ。ほぼ不可能ともいえよう。その理由はいくつかある。 第一に、英語は仏語や独語などと比べても単語数がきわめて多い。単語数が多いと、記憶することが大変なだけでなく類義語が多くなり、それらの間の微妙な相違の理解も必要になる。それだけでなく、英単語の使い方には規則性が少なく、それぞれ暗記しなければならない。 第二に、英語には動詞と前置詞などが結合して特別な意味を生み出す句動詞( get on など)が多数あり、それも記憶しなければならない。 第三に、さらにイディオムという特殊な表現もあって記憶していなければ、円滑な理解ができない。 以上は記憶の問題であるが、英語の論理にも理解困難な側面があり、日本人が完璧に理解することはまず不可能である。その一つが冠詞の使用だ。日本人が冠詞とくに定冠詞を正確に使うことはほぼ不可能かもしれない。かつて、著名な同時通訳者に冠詞はどう学習したらよいかと尋ねたことがある。答えは、冠詞だけはどうしようもないというものであった。これが、第四の習得困難な理由である。 第五の理由として、数の扱いに関する英語の論理を挙げたい。数えられる名詞として扱うか否か、単数とするか複数とするかの問題である。英語は数に対するこだわりの異常に強い言語のようだ。冠詞と同様に、辞書を調べただけでは十分正確に表現できる問題ではない。英語を話す場合は辞書を使えないの...

平成29年12月5日 漢文教育は必要か

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 ごく一部の専門家を除いて、日常生活や仕事において漢文を読むことはないのに、漢文教育は必要なのだろうか。現行の漢文教育の時間は他の教育に使うほうがよいのではないか。 この問題は、今まで真剣に議論されてこなかったように感じる。多くの教育は、行われないより行われたほうが好ましい。しかし地球上の知識はほとんど無限で、教育に使える時間は有限であることを考慮しなければならない。  漢文教育には、学習者の語彙(漢語)を増やしたり、言語(一種の外国語)に対する関心を高めたり、文学的センスを高めたりする効果がある。しかし、そこで使われている古代の思想(論語など)には、納得できるものもあるが、今日の観点からすると批判の余地のあるものも少なくない。にもかかわらず、教室では質疑や討論も行われず、単に理解や暗記が要求されているはずだ。大学入試問題もそうした教育に沿って出題されている。さらに、千年以上も昔の隣国の思想や物語を習った日本人が、今日の隣国に誤ったイメージをもつ可能性もあろう。一部の日本人の隣国に対する異常な寛大さは漢文教育に起因していると推察される。  そこで私は漢文教育に関して次のような提案をしたい。「代表的な漢詩100首を選び、漢文教育としては、それのみをすべての(普通科)高校生に教え、大学入試問題もそれのみを対象とする。」したがって、すべての漢文教科書は同じ100首を記載することになる。ただし、「漢詩100首」とは「五言絶句100首相当」という意味である。漢詩の芸術性は高く、現代人でも学ぶ価値が高いと私は信じる。  こうした教育にはいくつかの利点がある(以下順不同)。第一に、複雑な漢文文法を習得する必要がない。そうした知識は現実社会で不要だ。第二に、大学入試受験生に過度のストレスを与えない。彼らは勇んで100首を暗記するだろう。第三に、代表的な漢詩が多くの日本人の共通な知識となることによって、その一部がさまざまな機会に引用されたり、感情や情景が共有されやすくなったりする。第四に、多くの漢語の習得も可能である。第五に、漢文教育の時間が少なくなって、他の教育にもっと多くの時間が使える。  望むらくは漢詩の作り方も高校で教えてほしいと思う。漢詩には一定の形式があるので、辞書を使いながらそれに従って漢詩を作れるようになれば、多感な高校生なら作詩に挑戦するだろう...