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経済学部は必要なのか(70) 卒業後に必要となる知識や思考力

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卒業後に必要となる知識や思考力  経済学には数学的にこだわった議論が少なくない。学生が苦労してそれを理解しても、卒業後に役立つのだろうか、と教師は疑問に感じる。もちろん将来専門家になる一部の学生には役に立つであろうが、大多数の学生は卒業してから経済学の知識をあまり使わない。ほとんどの銀行員や証券マンさえ、使う経済学は初級レベルのものだ。また、高度な理論や手法を適用しても、実務ではたいてい役立たないという現実もある。明日の為替相場を最も正確に予測するのは、複雑な数理モデルではなく、今日の為替相場だという話もあるくらいだ。  たとえ経済学の知識を直接的にあまり使わなくても、経済学の学習によって鍛えられる思考力が卒業後に役立ちうることを私は否定しない。しかし、経済学の細かな知識を多量に学ぶよりも、他分野の知識を追加して、広くかつある程度体系的に学ぶほうが、ほとんどの学生にとって、卒業後にもっと有益であろう。そうすることは、広い知識を直接活用するだけでなく、それを基に柔軟に思考することを可能にするはずだ。 そのため、同一の勉強時間の効果を比べると、経済学の単一専攻よりは他分野も学ぶ二重専攻のほうが一層有益であると考えられる。二重学位であれば、知識はいっそう広くなり、思考力はさらに高まるだろう。追加的な知識の生産力を限界生産力と呼べば、職場において特定分野の知識の限界生産力がある知識量から急激に低下する場合は、二分野専攻のほうが有利なのである。職場による差異もありうるが、このことは多くの職場で成立するであろう。 こうした理由から、大部分の企業や機関では、大学で経済学だけを専攻した者より、他分野も学んだ者のほうがずっと生産的になるに違いない。経済学と法学を専攻した者、経済学と社会学を専攻した者、経済学と会計学を専攻した者のほうが、柔軟かつ創造的に働けるはずだ。多様な仕事にわたる適応力や柔軟な思考力において、二分野の専攻者のほうが有利であろう。 佐和(二〇一六 b )のように、学生の思考力・判断力・表現力の育成には、言語・数学・データに関するリテラシーの涵養が欠かせず、それを大学四年間で身に付けるには、経済学の勉強が「最も近道」だと断じる論者もいる。ただし教科書を読むだけでは役立たないので、人文学や経済学の現代の古典も学ばなければならないと説く。 しか

経済学部は必要なのか(69) 世界観を広げ創造性を増大させる

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世界観を広げ創造性を増大させる  本章における私の第二の提案をもう少し明確にすると、「学部段階の経済学教育では二重学位を目標とし、それが不可能な場合は二重専攻にせよ」と表現できる。二重学位が実行できるのは、一部の有力大学の学生に限られるかもしれない。 吉見(二〇一六)は、八ページほどにわたって、二重専攻や主専攻・副専攻の議論をしている。それに対して本論は、それが触れていない二重学位を重視し、実証分析の結果も検討して、それとは異なった視点から考察を行う。また以下の内容は、同書に触発されたものでもなく、留学経験を基に私が何十年も前から考えていたことにほかならない。その証拠もある。 経済学を含む二重学位や二重専攻の便益は多様で多大だ。前述のように、大学で教えられる経済学の世界観は単純で歪んでいる。「私利の追求が効率性を生む」という厚生経済学の第一命題を学ぶために、四年間を費やすことは適切だろうか。条件が満たされずこの命題が成立しない場合に、社会や人間はどうあるべきかを経済学は教えない。他分野の知識がどうしても不可欠だ。  二分野を専攻すれば、経済学の右のごとき世界観をかなり矯正できよう。これが第一の便益である。経済学と異なる視点も形成されれば、経済学の主張の相対化が容易になるはずだ。それどころか、ある問題の解法が二つの視点で異なれば、その理由を解明しようとして思考が深まる。第三の視点が生まれるかもしれない。二分野の専攻は単に専門知識の量を二倍(二重専攻なら一・二倍など)にするだけでなく、思考力を二倍(一・二倍など)以上にするのだ。  このことは次の比喩からも理解できよう。一専攻は思考の座標軸が一本であると例えられ、一専攻の知識による考察は、その座標軸上を左右することとみなせる。専攻が二つになれば、もう一本の座標軸が形成されて、互いに交わる二つの座標軸の上だけでなく、それらが張る平面の上を前後左右どの方向にも動けるようになるのだ。二つの座標軸が二次元的思考を生み出す。  二重専攻の実態や効果に関する調査と研究が米国で多少行われている。それによると、二重専攻者は単一専攻者より創造的に考え活動するようだ( Teagle Foundation, 2013 ) 。二重専攻は、違った考え方をしたり、知的な難問を考えたり、研究課題に創造的に取り組んだりするの

経済学部は必要なのか(68) 二重学位や二重専攻のすすめ

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二重学位や二重専攻のすすめ  経済学部の廃止や定員削減は直ちにできないかもしれない。多数の経済学部関係者が反対することは容易に予想できる。そのこともあって、以下では第二の提案をして論を展開したい。その提案とは、「学部生は経済学だけでなく他分野も専攻せよ」というものである。経済学のほかに、たとえば法学も専攻せよという提案だ。これも大きな改革をともなうが、実現可能性は高い。大学で二つの専攻をする場合、二重学位 (double degree) と二重専攻 (double major) の方法があるので、まずそれぞれの定義を明確にしてから意義を論じることにしよう。 二重学位とは、経済学士と法学士の取得のように、学位を二つ取得することにほかならない。ただし今日では、同一分野の学位を(単位互換などを通して)日本と外国の大学で取得する場合も二重学位と呼ばれており、現実にはその場合のほうが多(くなり)そうであるが、これは私の提案するものと内容や目的が異なる。また、それは大学院のほうが容易であり効果も大きいだろう。私の提案する二重学位は、異なる二分野の学位の取得を意味する。 二重専攻では経済学と法学のように二つの分野を専攻するが、満たすべき単位数は一専攻の場合と(ほぼ)同一で、得られる学位は一つにすぎない。そのため、一専攻の場合と比較して、各専攻分野で学ぶ科目数は少なく、卒論が課される場合はいずれかの分野で執筆する。米国の学部学生の約四分の一がこの意味の二重専攻だ。一般的に、二重専攻者の各専攻分野に関する知識の幅や深さは、一専攻の場合より少なくなろう。二重専攻と似ているものに、主専攻・副専攻の制度がある。 ここで考えている二重学位や二重専攻は、基本的に四年間で修了するものだ。そのため学習負荷は、二重専攻より二重学位のほうが格段に重い。一般教養的な科目は共通に使えるが、二重学位は単一学位の一・七倍以上の努力を要求するであろう。二重専攻は単一専攻の一・二倍以上の努力を要するかもしれない。たとえ単位数が同じでも、学問的関連性の薄い分野を学ぶことの労力は多くなるためだ。 二重学位や二重専攻で可能な専攻内容は、大学組織のあり方に制約される。総合大学であれば、学部間に緊密な協力があるかぎり、潜在的に多様な組み合わせが可能だ。学部数の少ない大学はこの点で不利だが、学部間の協

経済学部は必要なのか(67) 縮小しても研究水準は維持できる

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縮小しても研究水準は維持できる  経済学部を縮小すればその教員も少なくなって、経済学研究に支障が出るのではないか、と心配になるかもしれない。しかし現存の経済学部には、何年間も論文をまったく書いていない教員が少なくないようである。彼らがいなくなっても、わが国の経済学研究に支障はない。  経済学の国際学術誌に掲載される日本人の論文が少なくなる、と危惧する人がいるかもしれない。しかし、日本の経済学部が二十になっても、国際学術誌に掲載される日本人の論文数はほとんど変わらないと推察される。今日の世界の経済学に対する日本人の貢献はきわめて小さいのだ。日本人が切り開いた経済学の新しい分野や分析手法はほとんどない。  日本の経済学者が少なくなっても、国際学術誌に掲載される日本人の経済学論文を多くする方法はある。日本の経済学の存在感を今より格段に高めることは、それほど困難でもないのだ。その方法は、一部の大学における経済学の位置を数学や応用数学と同等にし、数学や統計学に強い教員や学生を集めて、大学院重視の経済学教育をすることである。つまり、数学者のように数理能力のある人たちが経済学の研究をして論文を書けば、経済学の国際学術誌に日本人の論文が多数掲載されるようになるはずだ。  わが国の数学の水準は世界でもトップレベルである。そのため、日本人経済学者の数理能力を世界のなかでも引けを取らない水準にもって行くことは可能だ。そうした能力のある研究者が、数学や数理統計学を多用する経済学の分野に特化して論文を執筆すれば、国際学術誌に掲載される日本人の経済学論文は格段に増えるはずである。現時点では、数理経済学・ゲーム論・ミクロ経済学・産業組織論などが、そのための有望な分野だ。 このような研究者は、日本全体の数学科の教員数と同じくらいでよいだろう。そのため、経済学部の縮小が大幅でない場合は、彼ら以外の多数の日本人経済学者が依然として大学で教育と研究を行うことが可能だ。要するに、経済学教員を二つのタイプに分け、一方のタイプの教員は数学や数理統計学を多用する研究に専心するようにして、国際学術誌に多数の論文が掲載されることを第一目標にさせるのである。他方のタイプの教員は、必ずしも高度に数学的な論文を書く必要がなく、国際学術誌に論文が掲載される義務もあまり強くない。  ただ、このよう

経済学部は必要なのか(66) 経済学部を縮小せよ

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経済学部を縮小せよ  前章までは経済学教育の問題点を論じてきたので、ここからは私の改善方法を提案したい。本章の提案は二つある。第一の提案は経済学部の教員から強い反対が予想されるもので、直ちに実現するのは困難かもしれない。第二の提案は反対者が相対的に少なく実現可能性が高いものの、大学と学生の双方に多くの努力を要求するものである。 提案内容に入ろう。第一の提案は、「経済学部の数や定員を減らせ」というものである。ここまで議論してきたように、ほとんどの学生は経済学を学んだからといって、社会に出て特別役立つ知識を身に付けるわけでもない。職業として経済学の知識を大いに使う者は、上位経済学部の卒業生の一割もいないだろう。ある程度使う者でも、せいぜいしっかりした入門レベルの経済学(あるいは米国ビジネス・スクールの経済学)の知識で十分だと推察される。ならば経済学部に所属する必要はなく、他学部に所属し教養科目あるいは必修科目として、入門レベルの経済学科目を数個履修する程度で間に合うだろう。  個人の利用可能な時間は有限なので、それを教育でいかに有効に使うかは十分に検討されなければならない。二十歳前後の青年の時間は特に貴重で、それを有用性の低い知識の習得に使うことは不適切だ。現状の何十という経済学部は不要だろう。経済学専攻の学生を減らし、減らした分をもっと有用な分野に振り向けるべきである。そしてそこでは若者が、問題の解明・解決に熱中して創意工夫を重ねられるようになる教育をすべきだ。一人ひとりに研究心を育成する教育が望まれる(荒井、二〇〇四)。  経済学が日本社会にとって真に有用な知識を生み出し、それを若者に教えるならば、その社会的貢献は大きくなり、経済学専攻の学生数を減らさなくてもよいかもしれない。たとえば、経済学が市場のみならず企業や公的機関の組織効率を高める方法を解明し、経済学部生がそれを習得して、就職後に組織の効率性を高めるのに大いに指導力を発揮すれば、経済学の社会的貢献はきわめて大きいであろう。組織の生産性が上がったり不祥事や不愉快な人間関係が消滅したりするからである。しかし、今日の経済学にこうしたことは期待できない。  批判はあろうが、ここまでの議論より、政府は理系教育を重視する政策に向かわざるをえない、と私は考える。実際のところ、人工知能の活用などによ

経済学部は必要なのか(65) 米英の英語戦略に対する反撃

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米英の英語戦略に対する反撃  ただし、英語の講義も部分的にあってもよい、と私は思う。トップレベル経済学部の経済理論・数学・統計学・計量経済学は、教員の英語力が高ければ、数学を多用する中級レベルから英語の講義にしてもかまわない。使われる英語が平易なためだ。また、それらの分野は英語の教科書で学んだほうが理解しやすいだろう。大学院では英語による講義を多くしてもよいが、全科目を英語で行う必要はない。特に日本に関する科目は、日本語で行うことが留学生にとっても好ましいだろう。ついでにいえば、外国語教育を主体とする大学(学部)では、専門言語以外の全科目の講義を英語で行うのが望ましい。  「学生全員を一年間海外留学させる」と宣言して、グローバル人材の育成に取り組んでいることを誇示する大学も今では現れている。留学がグローバル人材育成の特効薬のごとく語られているのだ。自校だけではグローバル人材の育成ができないことの免罪符として使われているようにも感じられる。外国語学部であればこれは自然な教育法であるが、経済学部などの場合、一般に費用に見合った便益があろうか。学生や大学の負担する費用は少なくない。 それだけでなく、海外の大学キャンパスに日本人学生が固まっている風景は異様だ。英米の大学に最近一年ほど留学した学部生二、三人から経験談を聞いたことがある。それによると、現地の学生と友達にはなれず、英語もそれほど上達しなかったようだ。彼らは日本の大学で良好な成績を収めた学生である。日本人の留学によって利益を得たのは、英米の大学とその周辺の経済と航空会社であろう(交換留学制度があれば大学の金銭的利益にはならないかもしれない)。一年間の留学程度でグローバル人材などとても育つはずがない。 わが国の外務官僚の達成する外交成果を見ただけでも、海外留学の効果がどれほどのものか想像がつこう。彼らは、採用されてから一~二年の国内実務研修を受けた後、二~三年間海外に留学する。そのときは仕事をいっさいせずに勉強に専念するらしい(遊び時間も多いのではないかと私は推察する)。外交官一人の養成に一・五~三千万円投入されるという(佐藤、二〇一一)。国費でもう一度大学を出るようなものだ。 エリートといえそうな人たちにこれほど潤沢に資金と時間を投入しているにもかかわらず、日本は外交において敗北を重ねている