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経済学部は必要なのか(14) 民主主義のための人文学

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民主主義のための人文学 以上よりもっと目的を絞って、人文・芸術教育の必要性を主張する論者もいる。それは適切な政治活動に不可欠になるという主張だ。ここで政治的活動とは、選挙での投票や政治的運動への参加だけでなく、メディアを通して日常的に政治情報を入手したり、必要に応じて活発に発言したり、批判や支持を表明したりすることなどを含む。人間には社会的義務としての発言もあるのだ。それらが適切であれば、われわれの社会は良好な状態に維持される。望ましい政治的活動も、右でみたよき市民としての行動や全体に配慮する行動の一部分にほかならない。 「国益を追求するあまり、諸国家とその教育システムは、デモクラシーの存続に必要な技能を無頓着に放棄して」いると ヌスバウム(二〇一三)は説く。米国では、短期間で収益を上げる実用的な教育や、 職業準備的な学部学位 に強い関心が向けられているという。だが民主主義 の存続に必要な技能を育成するには 人文・芸術教育が不可欠になる 、というのが彼女の主張だ。そしてその教育で重視されるべきは、「批判的精神」と「他者に対する共感」と「世界市民の精神」の育成だという。 ただ、そうした教育が社会を良化すれば、金銭的・非金銭的な社会的便益を生み出すので、彼女の理解に反して国益にもかなう。人文教育の廃止は国益追求に反するのだ。ヌスバウムは人文学者で経済学的知識が不十分なため、このような不正確な表現になったのであろう。 暗記中心の詰込み学習は、「 成人したのちも権威に従い、問いを発することのない従順な市民を作り出す」と彼女は警告する。そして、事実や原理の理解だけでなく、批判し評価できる能力の習得が必要だという。また、優れたビジネス教育者たちが、エンロンなどの破滅的な失敗の背後には、イエスマンの文化があることを挙げる、と彼女は説明している。  彼女が推奨するのは、独立心旺盛で孤独なカウボーイのような人物(一種の米国的理想像)を育成する教育ではなく、他者に対する敬意や協力や互恵性を生み出す教育だ。支配を好むように若者を教育したことが、世界戦争を引き起こしたと説く。さらに、「 宗教ほど、相互の敬意と生産的な議論を阻害してしまう、他者を貶めるようなステレオタイプを人々に抱かせる領域は」ないと宗教の危険性にも言及する。「他の白人を深く思いやる白人が、有色人種を

経済学部は必要なのか(13) 全体に配慮する精神

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全体に配慮する精神  広い視野からの思考を促す一般教養は、社会(組織)における自分の行動が他者に与える影響も考慮する姿勢につながるであろう。二〇一六年四月二日の『日本経済新聞』夕刊で、鳥養鶴雄が興味深い話をしている。「今の航空機は設計に多くの技術者が関係するので、個人が発想できる範囲は狭いと考えがちです。けれどそれは違います。全体を見回し、自分の分野が、全体にどう影響するかを常に考えるべきなのです。それがなければ面白くないでしょう。私はYS 11 などで尾翼の設計をしましたが、尾翼は全体に大きく関係します。大切なのは常に全体を見回す心。これは、航空機にとどまらず、モノづくり全般に通じることです。」  組織や社会において常に全体に目をやり、全体のなかで自分のすべきことを考える。その際には、広い知識がなければ、全体にとって最適な自分の行動を決定できない。この点において、日本文化は西欧文化よりも優れた人間行動を生み出し、生産活動で比較優位を発揮してきたと私は考える(荒井、一九九七)。日本文化を再認識し、こうした行動にふさわしい教養をもつ日本人が多くなれば、日本社会は輝かしいものになろう。新自由主義的な思考に強く支配された今日の日本人は、この視点からも教養を考え直す必要がある。  斎藤(二〇一三)の次の指摘も、これと部分的に関係するであろう。「正義を見極めるためのさまざまな情報を有しているかどうか、そしてさまざまな視点から状況を分析して自分なりの行動原理を導くバランス感覚を備えているかどうか、それが教養を身につけているかどうかの大きな指標になると思われる。」若いときに古典を中心とする質のいい情報に接しておくことが大切だ、と彼は説く。  ただ私は彼の論説に物足りなさも感じる。「自分が学生であったときも含めると、過去三十年以上、語学・文学・人文系の大学院生や専門的研究者たちとつき合ってきた。その多くが学術的さらには人間的にバランスの取れた学者であり教養人であることは間違いない。」と彼はいう。しかし、それほどの教養人がいるのであれば、今日の日本社会の惨状はなぜ発生したのか、という疑問を私は抱く。なぜ彼らは指導力を発揮したり、現状を強く批判して改善を要求したりしなかったのか。 教養は狭い人間関係に表れる人格だけの問題ではなく、広い社会に対する言動を伴わなけれ

経済学部は必要なのか(12) よき市民や組織成員のための教養

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よき市民や組織成員のための教養  高潔な紳士になるためには教養が必要だといわれる。逆に、教養が生む倫理は金儲けに無用だといわれることもあろう。私利追及を正当化する経済学は後者の見解に近い。他方、教養はそれ自体が目的であって、実利のためのものではない、といわれることも多い。  多くの論者の理解に反して、紳士や倫理的な人間を養成する教養教育には、私的および社会的便益がある。しかも、それぞれに金銭的・非金銭的便益の両方があるのだ。なぜなら、そうした人物は経営者や専門家などとして、長期的にみると概して生産的であり、組織や社会一般の中で他者に利益を与えうるからである。 倫理的人間は努力家で向学心も有するが、残念ながら他者から嫉妬され利用されて、不利な立場に陥れられることが多い。教養が有用なのは間違いない。しばしば「装飾としての教養」という否定的な表現が使われる。しかしそうした教養でも、倫理性を高めるのであれば便益を生み出す。  私はかねてから公共心の教育の重要性を主張している。公共心にも生命を賭すほど強いものと、必要に応じて適切な意見を述べたり社会や組織をある程度利する行動をとったりする相対的に弱いものとがあり、紳士などに関してここで問題にされているのは、どちらかといえば後者だ。  そして荒井(二〇〇二)において次のように述べた。「一般教養は『よき市民』を生み出す。社会が円滑に機能し、生産効率が高まり、人々が幸福に暮らせるためには、各人が他者に配慮し公共心をもって行動する必要がある。個人間には相互依存性があり私利追求原理では社会がうまく機能しないと理解されたときにはじめて、『よき市民』になるための一般教養の必要性が認識される。そのときにのみ、『人はいかに生きるべきか』という問いが本当の意味を持つ。したがって、一般教養の習得は文化として半ば強制的に社会の成員が行わなければならない。本来的に、個々人の判断で一般教養の習得量を決めるべきではない。」ここで「社会」を「組織」と言い換えてもよく、一般教養は「よき組織成員」を生み出すということも可能だ。   大学設置基準の大綱化、すなわち教養教育の規制緩和が行われたのは、 一九九〇年代においてである 。すでにこのころには、就職を最優先して大学生活を送る学生が多く見られた。就職も大切だが、そればかりに熱中する学生

経済学部は必要なのか(11) 教育と研究は分離できるか

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教育と研究は分離できるか  オルテガが理想とする教育と研究の関係についてコメントしておきたい。それは、「教師も学生もともに学問(研究)のためにいる」大学で「研究を通じての教育」がなされることを目標とするフンボルト理念(潮木、二〇〇八)と異なる。オルテガは、研究に従事することを、学生だけでなく大学教師の必要条件にもしない。ただし、「『教師』としてのみいる者は、発酵しつづける科学の経過にたえず接触し、科学に刺戟され見守られて、働いてゆくであろう。」として、研究しない教師も研究成果一般を理解している必要があると説く。  研究しない大学教師でも、学部レベルの標準的な教科書の内容を教えることは可能かもしれない。だが彼らの講義には深みが欠けるであろう。研究している教師であれば、教科書の内容の問題点や関連する研究の新展開などを講義の合間に話して、学生の好奇心を喚起できるが、研究していない教師はそうすることが困難だ。テレビに登場するスポーツ解説者のほとんどが、かつては一流選手であったこともこれと関係していよう。特定の事柄に十年以上にわたって自ら苦労したことのある者しか、深みのある話をすることができない。  また、日常的に研究していない教師は、学部ゼミの指導が十分に行えない。常に新しい問題を考えている研究者でなければ、卒論指導は困難だろう。大学院のゼミ指導などは不可能なはずだ。学部や大学院のゼミの目的は、特定分野の知識の伝達だけでなく、思考の仕方や思考を論文に表現する方法の指導である。研究しながら多量の文献を読んでいなければ、それは不可能だ。そもそも自ら独創的な研究をしていなければ、論文などの文献を読む意欲が湧いてこないだろう。 あえていえば、一般教養として、いくつかの分野の代表的な論文だけを読むことさえ、正当な勉強方法とはいえない。そもそもどれが代表的な論文であるかも容易にはわからないだろう。特定の問題に関連した多くの論文を、自分でそれぞれの位置づけをしながら読むことが、本来の論文の読み方である。  これと同様に、医師養成の教育と医学研究は違うことをオルテガは強調するが、このことも問題を含む。研究に実際に従事し、それに関する知識をある程度もっていなければ、臨床医師は最新の研究成果を十分に評価できない。また、臨床の事例から医学研究に発展することは普通に見られる

経済学部は必要なのか(10) 諸理念の体系としてのリベラルアーツ

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諸理念の体系としてのリベラルアーツ  ミルの大学論はオルテガの『大学の使命』(一九三〇年)に受け継がれた(オルテガ、一九九六)。一般教養ないし教養(文化)は、人生の密林に通路を造る諸理念の体系すなわち世界観だと彼はいう。個人や人類の行動指針だ。それは宇宙に関する明瞭にして確固たる理念であり、事物と世界の本質に関する積極的な確信であるとする。この(一般)教養も、多分野から得られる体系的知識や哲学を意味するリベラルアーツである、と私は解釈したい。  「中世の大学と比較してみると、われわれの時代の大学は、当時萌芽の状態にすぎなかった専門職教育を法外に拡大し、さらにその上に研究活動を付け加えた。そして教養の教育や伝達は、ほとんど完全に放棄してしまった。」と彼は嘆く。その結果生まれたのが、直面する重大な諸問題にうまく対処することのできない「新しい野蛮人」であると説明する。「この新しい野蛮人は、とりわけ専門家である。以前よりもいっそう博識であるが、同時にいっそう無教養の技師、医師、弁護士、科学者等の専門家である。」と彼はいう。 経済学の閉じた世界に安住する経済学者は、新しい野蛮人の典型だ、と私には思われる。経済学者ほど他分野の考えに耳を傾けない研究者はいない。反面、学界内における激しい相互批判は他分野でも悪名が高いと聞く。経済学者は、オルテガの意味の一般教養や文化に対して極度に無関心なのだ。彼らは経済学特有の論理で論文を書くことに熱中し、それを自慢している。また、経済学界内で高く評価されるのは、一般人の意表を突く結論をもつそうした論文なのだ。経済学では個々人の倫理的行動に期待する議論をしてはいけない、というような主張をする経済学者もいる。  産業革命を境にして、人類の共有する知識の量は指数関数的に増えてきた。ミルの時代から半世紀ほど後に生きたこともあって、オルテガは大学の最も重要な使命を「教養(文化)の伝達」だけでなく「専門職教育」も含むとしている。「科学研究と若い科学者の養成」も大学の使命とみなしているが、それに対しては二次的な重要性しか付与していない。  ただ、研究と教養の間の重要な関係をオルテガは指摘する。教養は多分野の真理を基礎として人類がつくり上げた理念・文化・精神の体系なので、研究の生み出す真理が教養の内容に影響するのは確かだ。明確に真理に反

経済学部は必要なのか (9) 知識の哲学としてのリベラルアーツ

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知識の哲学としてのリベラルアーツ 大学は職業教育の場ではない。教養ある有能な人間を育成する場である。日本では明治維新のころに、スコットランドの大学で『大学教育について』講演を行ったジョン・スチュアート・ミルはこう述べた(ミル、二〇一一)。大学が学生に教えるべきは、専門的知識ではなく、人類の体系化された知識とその使い方すなわち知識の哲学である、と彼は主張する。一分野の学問に没頭することは、精神を偏狭にし、偏見を生む。小さなことに熟達すればするほど、人間性はますます矮小化し、重要なことに対して不適格になる。彼はそのように説く。 講演の行われた一五〇年程前と現在とでは人類の知識量が格段に異なるため、ミルの主張をそのまま今日の大学に適用するのは問題である。今日では大学で専門分野の体系的教育を行わざるをえない。しかし、一般教養の重要性と職業教育に偏することの危険性を強調する彼の考え方は、依然として有効だ。なお、一般教養は現在いくつかの異なった意味で使われているが、ミルのいう一般教養は、多分野の体系化された知識とその哲学を意味するリベラルアーツとみなすのが適切だと私は考える。 さらに、他国の理解にはその国の眼鏡をかけてみる必要があるとし、一般教養の一環として他国の文化を謙虚に学ぶことの重要性をミルは説く(彼が重視するのは古代ギリシャ・ローマの言語と文学)。これは、今日の米英人の思考や、英語の著作によって世界の大学を序列化しようとする彼らの戦略に対する批判にもなろう。米英人ほど他国文化に無関心な民族はおらず、彼らの多くは他文化を学ばずに、自文化が最高だと信じている。 ミルは次のようにも説く。「高貴な心情ほど教師から学生へと容易に感染していくものはありません。今までにも、多くの学生たちは、一教授の強い影響を受けて、卑俗で利己的な目的を軽蔑し、この世界を自分が生まれたときよりも少しでも良いものにしてこの世を去りたいという高貴な大望を抱くようになり、そしてそのような気持ちを生涯持ち続けたのであります。」残念ながら、教養教育の衰退や経済学のいびつな発展などによって、こうした大志は今日の経済学部の教師や学生に見られなくなった。「卑俗で利己的な目的」が尊重されているのである。 ミルに対する批判も付しておきたい。この講演でミルは、「わが国が植民地や諸外国に対していかなる

経済学部は必要なのか (8) リベラルアーツ教育の意義

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リベラルアーツ教育の意義  リベラルアーツ教育の必要性は、他の今日的な理由からも高まっているので、多少の重複を厭わずそれらを整理してみたい。その一つは、広い分野に関係し複雑化している問題が現代社会に多いことである。たとえば少子高齢化は経済学・社会学・法学・医学などに関係する問題で、単一分野の知識のみでは適切な政策を見出せない。人工知能の開発には、関係工学だけでなく脳科学・心理学・法学・経済学の知識も不可欠だろう。原子力発電の問題解決には、各種工学のほかに経済学・心理学・資源・地震・津波の知識も必要になるに違いない。  もう一つの理由は、いくつかの分野で専門化が極度に進行し、危険を伴う技術が生まれつつあることである。典型例が核兵器だ。一部の物理学者が極限まで専門知識を追究して、それを生み出した。最近の北朝鮮問題から明らかなように、それは今にも全人類を滅ぼしかねない危険な兵器で、全世界の人々の心理や国際関係に暗い影を落としている。生命科学や医学や人工知能にも人類を危機に陥れる要素があると予想する人が多い。今日の世界で優勢となった新自由主義は、経済学の一面的な論理を極限まで推し進めて得た考え方であるために、数々の深刻な問題を生み出している。研究には一分野以外の広い知識も必要なことが明らかであろう。  また、リベラルアーツは専門知による思考の制約を解き放ち、異なった視点からの考察を可能にする。経済学が対象とする問題はしばしば社会学や法学の対象でもあり、それらは経済学と異なった論理を使って結論を導き出す。そのため、これらの複数の分野の知識を有すると深い理解に到達できよう。これは現代の悲願である学問の統合にも資する。これとは別に、外国の言語や宗教に関する知識を有すれば、自分の立場を相対化することが可能だ。古典や歴史を知っていると、現代の思考を相対化できる。 さらに、教育は生産活動のためだけに行うのではない。労働者には家庭生活や市民生活があり、特に今日では定年退職後に労働しない長期の生活がある。教育はそうした生活のためにも必要だ。草木の名前を知っているだけでも楽しいように、自然や社会や人間に関する豊富な知識は人間を幸福にする。換言すれば、リベラルアーツ教育には私的な非金銭的便益もあるのだ。  かつて作家の曽野綾子が、「(自分は)二次方程式を解かなくても生き

経済学部は必要なのか (7) 環境変化と広い知識の必要性

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第一章 リベラルアーツと価値の教育 環境変化と広い知識の必要性  「文科省は国立大学に人社系が不要と言っているわけではないし、軽視もしていない。すぐに役立つ実学のみを重視しろとも言っていない。」釈明の一環として、文科大臣は二〇一五年八月十日の『日本経済新聞』でこのように述べている。 次のような発言も見られた。「これからは、将来予測がますます困難な社会になる。社会が大きく変わる中で、単なる知識の暗記ではない、判断力や思考力、創造力といった『真の学ぶ力』が必要になる。答えのない問題に自ら取り組み解答を出す力や、リベラルアーツ教育による人間性の厚みが重要になる。」  新しい大学組織に関しては、以下のようなある程度具体的なイメージを提示した。「法学部を出て自治体に就職したら、法学系の専門知識も必要だが、それだけでは足りない。経済学や社会学などをはじめ、広い意味でのリベラルアーツも求められる。より幅広く学ばせようという思いが、既存学部を統廃合し新学部をつくる動きに表れている。」「情報化社会に必要なのは、創造性や主体的に課題に取り組む力、コンピュータやロボットが発達しても到達できないであろう人間的な優しさや感性、慈しみなどだ。大学はそういう能力に資する教育をしているのか。」「国立文系をなくそうとは考えていない。ただ、文理融合の新学部はありうる。」  先に引用した九月一八日の文科省高等教育局長の文書に示されている見解もこれと関連しよう。すなわち「『組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換』に積極的に取り組む努力が必要である」ことの「背景には我が国社会を取り巻く環境の大きな変化」があるという。  これらの発言や意見に通底するのは、今日の日本を取り巻く環境の急激で大きな変化に対して、適切に対応できる教育が必要だという考え方であろう。その具体的方策としてはリベラルアーツや文理融合の可能性が考えられている。社会の変化が大きいときは、特定分野の知識の有用性も限定的になりやすいので、複数分野の知識の習得が有利だという考えだ。経済学部の視点からいえば、経済学教育だけでは、卒業生の将来はあまり有望でないということになる。 先に引用した日本学術会議幹事会の声明も、研究者が「自然・人間・社会に関して深くバランスの取れた知を蓄積・継承」すべきことを訴え、広い知識の必要性

経済学部は必要なのか(6) 経済学部の存在意義

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経済学部の存在意義  本評論が主たる議論の対象とする経済学部の教育や研究は、役に立つのだろうか。経済学部には存在意義があるのか。あるとすれば、その教育は金銭的便益と非金銭的便益の両方を生み出すのであろうか。また、それらは私的便益と社会的便益の両方なのか。便益がゼロでないとしても、現状ほど大規模に経済学教育を行う意義があるのか。本評論はこうした問題意識を基礎にして議論を展開してゆきたい。  一国の経済が良好であることは、すべての国民にとってきわめて重要である。働くことによって安定的な所得が得られ、まずまずの生活ができることを、われわれは望むだろう。可能ならばある程度ゆとりのある生活をしてみたいとも感じているはずだ。職場の温かい人間関係のなかで思う存分働くことも欲している。安泰な国家や美しい環境も必要だと思うだろう。経済のメカニズムと実体に精通した公務員やビジネスマンが、政府や企業の活動を上手に展開してほしいとも願っている。こうした希望を実現するために経済学や経済学部が存在する、と多くの人たちは考えているに違いない。  たしかに、経済学の目的は人間の物質的・精神的幸福を増進することである。しかし少し奇妙であるが、現実の経済学がそれを達成しているか否かは、必ずしも明らかでない。しっかりした法学が存在しなければ社会が大混乱になることは自明なのに、今日のような経済学が存在しなければ、社会の人々は不幸になるとか、経済の効率性が低下するとかは断定しにくいのだ。経済が長期間停滞している今の時代では特にそうである。哲学・史学・文学などの人文系の教育が生み出すとみなされている便益を、経済学教育が生み出すとも考えにくい。ここに、法学部や文学部などの人社系学部とは別に、経済学部単独の存在意義を考える理由の一つがある。  経済学部出身者も、経済学教育の便益を実感しにくいだろう。学生時代に苦労して難しい経済理論と格闘したことは、役に立っていると感じられないかもしれない。他の勉強をしておいたほうが有益だったと思っている可能性もある。「はしがき」に記したように、経済学の教師でさえ、経済学教育の便益を指摘することは、それほど容易でない。 経済学は人社系の他分野と異なる方法で人間の幸福増進を考えている。だが、その学問的な成果や効果は分かりにくい。そのため人社系学部を一括して、存