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経済学部は必要なのか(29) 生き方としての教養

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第三章 教養の神髄は公共心 生き方としての教養 英語の culture には、「耕作」と「教養」と「文化」という意味が含まれている。自然の状態を「耕作」するように、生まれてきた人間の人格や能力を陶冶して「教養」を育み、良質な人間観・世界観の形成を促し、社会に優れた「文化」を実らせることを、その語はイメージさせよう。第一章では「世界観」としての教養を問題としたが、本章では「人格」に関係する教養を問題としたい。人格を陶冶して教養を育むことは、「いかに生きるべきか」を学生に考えさせて、以後の人生で実践させることなので、「倫理」の問題でもある。 学生が「倫理」すなわち「生き方」を考える際に、当然ながらどう考えてもよいというわけではない。現代の知識および世界の古典や過去の精神を踏まえながら、各自の思考を深める必要がある。 また、第一章で問題とした「世界観」と、本章で問題とする「生き方」との間の不可分な関係も留意されなければならない。自然・人文・社会科学を基礎とする世界観が生き方に影響するのは明らかだろう。他方、生きる上で何をどれほど重要視するかは、世界観に影響するはずだ。たとえば、研究対象や研究方法の選択などを通して、生き方は科学などの成果に影響しよう。したがって社会や人類全体の視点から視ると、世界観と生き方は相互作用を維持しながら、並行的に形成されることになるはずだ。 ただ詳細に考えると、第一章の「世界観」と本章の「生き方」には多少の相違もある。生き方を考えるときは、「知識の哲学」や「諸理念の体系」としての「リベラルアーツ」の場合よりも、専門的・具体的な知識と思考が多く必要になるからだ。たとえば、エネルギーや交通手段の利用に際しては技術や環境・資源に関する知識、外国人と付き合う際は歴史に関する知識、そして批判精神一般を発揮するには政治経済その他に関するある程度詳しい知識が必要だろう。 第一章で荒井(二〇〇二)に関連して触れたように、人間が考えるべき「生き方」の神髄は、「(広い意味の)公共心のもち方」である。そのため、新自由主義からは「生き方」や教養に関する問題意識が生まれない。公共心は相互依存の状態にある人間関係のなかで発揮されるので、「生き方」を考えることは、つまるところ、まず「他者とどのような関係を維持すべきか」を思考し、そしてそのために「社

経済学部は必要なのか(28) 勤勉で勉強好きな日本人という神話

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勤勉で勉強好きな日本人という神話  ここまでにみたように、経済学部(研究科)には不勉強な学生がきわめて多い。経済学を学ぶことに便益があるとしても、彼らは勉強しない。大学院には研究できない学生が多数いる。つまるところ、現在の経済学部は教育機能をあまり果たしていない。この事実は経済学部の存在意義を疑わせよう。現行のような経済学部は必要なさそうである。 大学生を対象としたベネッセの調査によると、「授業の予復習や課題をやる時間」が一週間に一時間未満の者は四二・九%、「大学の授業以外の自主的な勉強」の時間が一週間に一時間未満の者は五八・七%だという(ベネッセ、二〇一二)。ほぼ半数の学生が授業外でほとんど勉強していない。『ウォールストリート・ジャーナル』まで、「日本の大学生の三分の二がクラス外で週二時間以下しか勉強しない」と報告している (Obe, 2015) 。これが内外に多数の難題を抱える日本国の学生の実態だ。経済学部生に限らないが、彼らがこの実態に大きく貢献しているはずである。多くの日本人が将来を悲観するのではなかろうか。ちなみに、一九三四年における文系東大生の学校外勉強時間は、 一日 約四時間であった(竹内、二〇〇三)。 日本学術会議幹事会声明のいう「我が国及び外国の社会、文化、歴史の理解をはじめとする人文・社会科学が提供する知識とそれらに基づいた判断力、そして批判的思考力」をもつ人材などは、今日の日本の経済学部で一人も育っていないだろう。さらに、「現代世界において次々に生起する一義的な正解の存在しない諸問題について、学際的な視点で考え、多様な見解を持つ他者との対話を通して自身の考えを深めていく力」など、いずれの経済学部生も身につけていないはずだ。不勉強な学生が「学際的な視点で考え」ることなどまず不可能である。 私が経済学の勉強を始めた一九七〇年代初期と比較すると、今日では経済学の勉強が格段にしやすい。日本語や英語の分かりやすい教科書が多数出版されている。かつては大学教師の経済学理解が不十分だったこともあって、講義や出版数の少ない教科書が分かりにくかった。今日の経済学部の学生はたいへん恵まれているにもかかわらず、ほとんど勉強しないのだ。 この事態は、今世紀に入って長期にわたり日本人横綱が生まれなかった事情と似ている。外国人力士より日本人力士のほう

経済学部は必要なのか(27) 大学院生は勉強家なのか

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大学院生は勉強家なのか  何年か前、私の大学院ゼミに他大学出身の女子学生が入ってきた。私の専門分野のトピックで修士論文を書きたいという。ただ、そのための基礎知識がなかったので、夏休み明けに開講する私の学部講義を履修するよう助言した。その講義の試験は客観的な評価が可能なものだ。にもかかわらず、その学生の成績はF(不可)であった。つまり、平均的学部学生よりずっと出来が悪かったのだ。 私は成績評価に私情を挟まない(私情は不正でもある)ので、試験結果に基づいて成績をつけたにすぎない。この成績のためと推察するが、彼女は二年次になると連絡もなしに他の教員のゼミに移っていった。その科目にはちゃんと教科書があり、試験では教科書持ち込み可であったので、普通に勉強すれば間違いなく良好な成績を収められたはずである。だから彼女は、自分が教科書を理解していないことを自覚していたはずだ。普段のゼミの態度からも、彼女が熱心に勉強しているようには見えなかった。 他の大学院生の例を追加しておこう。経済学の大学院生は理論または実証の専門家になるのが普通だ。ある大学院生に、彼の能力を考慮して実証を中心に勉強するようにアドバイスして、計量経済学の科目を履修させた。修士論文を書く段階になって、「計量経済学の勉強をしたので、それを使ってみたいと思わないか?」と聞くと、「別に・・・。」という返事。勉学熱心でなかったので、別の機会に「将来のことが心配になれば、勉強しようと考えるのではないか?」と聞いても、無表情であった。向学心に欠けるこのような大学院生を、教師は相手にする必要があろうか。 右は少数の例であるが、今日では学部学生より低学力の大学院生が多い。少なからざる大学でも同様のようだ。その一因は、大学院重点化によって、以前の何倍もの学生が大学院に進学するようになったことにある。私が大学院に進学したころは競争率が五倍ほどあったが、今日では二倍を切っているはずだ。大学院は何校でも受験可能なので、実質的に全入状態といえよう。 今日の大学院は広き門となり、基礎学力や向学心に欠ける学生が大量に入学している。重点化した大学院は、定員を満たすために、かつては縁もなかった下位の大学から学生を受け入れているのだ。それどころか中堅の大学を詣でて、大学院受験者を送り出すよう懇請している。 上位大学出身の大

経済学部は必要なのか(26) 学生の授業評価も不勉強を促す

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学生の授業評価も不勉強を促す  最近は、各学期の最終講義の際に、学生による授業評価を実施する大学が多い。学生は選択肢のある質問に答えたり、自由筆記の蘭に記入したりして評価を行う。全教員に関する評価結果を冊子などにまとめて、教員や学生に公表している大学もある。学外者も閲覧可能かもしれない。授業評価の目的は「講義の改善」と「教員の勤務評定」であろう。後者はほとんどの大学でまだ公式に表明されていないと思われるが、近い将来に実現する可能性が高い。 授業評価を経験してみると、奇妙なことをいくつか発見する。「(マイクで)話す声が小さい」「講義のスピードが速すぎる(講義内容が多すぎる)」「パワーポイントのスライドの切り替えが速すぎる」というような意見が多い。そうした意見があるならば、なぜ学期の初めころに教師に口頭で伝えないのだろうか。講義最終日に意見をいっても、まったく評価者の利益にならない。また、わざわざアンケートを行わないと、この程度の意見さえ表明できないのも情けない。 授業評価を行うと学生の学力は上がる、と多くの人が信じているかもしれない。しかし、(今までよほど低質な講義が行われていた場合を除き)学力は概して低下する、と私は考える(数十年前は低質な講義も少なくなかったが)。学生を厳しく鍛える講義が低い評価を受けて消滅するからだ。学生の評価を気にして教師が平易なことばかり教えたり、講義内容を削減したりすれば、学生は知識量が減るし勉強もしなくなる。学生に迎合した落語のような講義では、思想や文化の伝達も不可能だろう。また、頻繁に行われる授業評価は、学生に自分が主人で教師が従者であるような意識を醸成し、学力低下を促進する。学問は教えを乞うてするものだ。 授業評価には深刻な問題がいくつかある(荒井、二〇〇四)。学生の向学心の程度によって評価基準が異なることを、現行の方法は考慮していない。いい講義はどんな学生からも高く評価される、という思い込みから授業評価が実施されている。実際には向学心に欠ける学生が圧倒的に多く、こうした学生は厳しい講義を高く評価しない。評価のポイントを高めるために、そうした学生に合わせて教師が授業を行うことは好ましいのだろうか。不勉強の学生の尻を叩いて勉強させる授業のほうが好ましいと私には思われる。 また一般に、学生は学問や現実世界に関して教

経済学部は必要なのか(25) 不勉強を促す成績評価法

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不勉強を促す成績評価法  学生がこれほど不勉強ならば、試験を厳しくして成績不良の学生に単位を与えず、最終的に卒業させなければよいではないか、と多くの人が考えるだろう。私もその一人だ。しかし問題もある。学部全体のなかで少数の教師だけが厳しい評価をすると、そうした教師の受講者はごくわずかになってしまう。十人前後になる可能性もある。普通の教師はそれに耐えられない。  ならば、すべての教員が厳しい評価をするように決めればよいではないか、と多くが考えるだろう。「厳しい評価」は主観的になりがちなので、実際は相対評価にして、A、B、C、D、F(不可)の各割合を決めることになる。教師になりたてのころに私はそれを学内の委員会で提唱したことがあるけれど、相対評価に強く反対する教育学者がその委員会にいて、実現しなかった(ただし、それから二十年ほど後にAの割合のみは明確に決まった)。相対評価に反対する教員に、学生の不勉強をどうするのか、また大学入試の相対評価は問題ないのかを説明してもらいたいものだ。  たしかに相対評価は、全学生が死に物狂いで勉強しても、一定割合の学生が必ずFをつけられてしまい、不合理になりうる。しかし、実際にそんな事態が起きそうもないことは、ここまでの説明から推察できよう。私はそのような「困った事態」が起きるほど多くの学生が猛勉強する姿を見てみたいものだと思っている。万一そのような「困った事態」が生起したら、そのときは日本が世界で最も輝く憧れの国になっているはずだ。  かつての日本の大学では、Fより上の成績で必要単位数をそろえれば卒業できたので、また企業も大学の成績を重視しなかったので、多くの学生があまり勉強しないで卒業していった。最近では、日本でもGPA制が採用されて、成績平均点がある水準以上でなければ卒業できなくなりつつある。これは好ましい制度だが、相対評価を採用しないかぎり、平易な講義や甘い成績評価の講義に学生が集中し、学生を真に鍛える充実した講義の履修者は少なくなろう。  現在進行中の少子化のために、下位の大学は学生の獲得に必死だ。そのため、大学が相対評価をしたり厳しい評価をしたりして卒業を困難にすると、学生を集められず、定員を大幅に満たせなくなる可能性がある。そうした大学にとって、学生は「お客様」で学生に媚びることも行われがちであろう。中

経済学部は必要なのか(24) 不勉強を示す受講態度

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不勉強を示す受講態度  学生の受講態度からも彼らの不勉強が推察可能だ。ほとんどの講義室で学生は後方の席に座っている。それだけでなく、下位の大学では学生の私語が多くて、正常な講義が困難だ。私語は最後部辺りに座っている学生に多い。私語をする学生に向かって講義する教師は惨めなものだ。教師が私語を注意すると、教室は一時的に静かになるが、しばらくすると元に戻ってしまう。 教室内が私語でワイワイガヤガヤしていても、一向に注意せずに講義を続ける教師がいる、と学生から聞いたことがある。私語を注意すると不愉快になるためであろう。その教師は、黒板やプロジェクタのスクリーンに向かって、独り言をいう気持ちで講義しているはずだ。大変な苦痛であるに違いない。ちなみに彼の講義に対する学生の評価は学内トップクラスらしい。 講義には出席するけれど、机にうつ伏して眠っている(ような)学生がいる。また、講義中にストローでジュースや牛乳を飲む学生が最近は現れているようだ。ひょっとしたら講義中に物を食べる学生もいるかもしれない。まるで相撲や野球を観戦するような気分で、講義に出席しているのだろう。 テレビを見るような気で講義に出席する学生が多いことは、私もかなり前から気づいていた。「教師は勝手に講義してください。私は好きなようにそれを見ています。」というのが彼らの受講態度だ。そこには講義に参加するという意識がない。教師と学生が一つの共有された空間のなかで相互作用を演じるという意気込みがないのだ。そのために、質問を促しても質問しないし、教師が学生を指名して質問でもしようものなら、当惑した表情や不機嫌な表情を浮かべる。できるだけ指名を避けることも、後方の席に座る理由といえよう。 佐藤・田中・尾崎(一九九四)には、「なぜ、みんなで自分の意見を出して話し合っていくような授業をしないのだろう」という一八歳の高校生の意見が紹介されているが、実態は右の通りだ。「教員と学生がともにつくり上げる学びの<場>としての大学」(室井、二〇一五 b )は理想であっても、現実ではない。批判精神や討議や学生と教師の学び合いなどは美しい言葉であるが、学生の向学心や努力なしには成立しない。今日の学生にはそれらが決定的に欠けている。 最近はコピペのレポートや卒論が発生している。あちこちのサイト記事を複写し貼り合わせた

経済学部は必要なのか(23) 批判精神は育っているのか

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批判精神は育っているのか 輪読するゼミで質問やコメントをするには、担当者でなくてもテキストを読んできて、ある程度理解していなければならない。そして、どの箇所が理解できないか、あるいはどの点に疑問を感じるのかを明確にしておく必要があろう。こうした準備なしに、報告を聞いたりレジュメを見たりしただけでは、十分に理解できず質問もしにくいはずだ。活発な議論が少ないのは、報告者以外のゼミ参加者でテキストを読んでくる学生が少ないのが最も重要な理由である。 ゼミと聞けば崇高な教育方法のように感じる人もいるようで、実際に教育改革の一手段として、多くの大学がゼミの対象を一、二年生にも広げている。しかし、ほとんどの学生はゼミでも真剣に勉強しない。知識を深め討議力を鍛える機会は与えられているが、積極的に活用する学生はあまりいないのだ。テキストを予習せずにゼミに出席し、九十分間無言で過ごしても、特に成績が悪くなるわけではない。学年末が近づいたころ、閉じたテキストを見ながら、「自分の報告したページの部分だけが黒っぽく縞になっている」と恥ずかしげもなくいった学生もいる。  卒論ゼミでは報告者以外が予習しにくいけれど、むしろそのために初歩的な質問でもしやすいといえよう。たしかに、多少の質問は出されるが、ゼミが盛り上がるほどの質問になるわけではない。自分が発表するとき以外は無言で一年間を終える学生も少なくないのだ。  ゼミの指導教員によっては、報告者だけでなく質問者もあらかじめ決めておいて、質問者は必ず質問やコメントをするようにさせている。私もそのようなことを一時試したが、それは正常な学問の姿勢ではないと感じてやめてしまった。強制されなければ質問しないというのは、学問する者にとって恥ずかしいことではなかろうか。強制されずとも、自然と疑問が湧くような勉学習慣を身につけるべきである。  前の二つの章の議論で重要な働きをしたのが、「批判精神」や「批判的思考力」という概念である。文系の学問はそうした精神や能力を養成すると主張された。しかし、右でみたように現実ではほとんど養成されていない。それらは文献を読み議論をすることによって身につくはずである。だが、学生にはそうする強い意欲がない。教師が批判や質問をどんなに奨励しても、学生はそれに全然応えないのだ。  批判するためには、教科書や