投稿

9月, 2019の投稿を表示しています

経済学部は必要なのか(85) 日本文化に対する理解

イメージ
日本文化に対する理解  悲惨な戦争や植民地支配が長く続いた西欧と比べれば、日本は特異な歴史や文化をもつ。可能なかぎり客観性を心がけて比較をすれば、日本には優れた点が多数存在することが理解できるはずだ。しかし敗戦の影響もあって、戦後の教育は自国の長所を十分に教えてこなかった。日本の歴史や文化を否定的に教えることを好む人も少なくない。 日本の若者が欧米のことにもまして自国のことを学ぶようになり、自国の歴史や文化の長所を理解すれば、好奇心や勉学意欲が高まり秀逸な発想も生まれてくるであろう。中高の地歴科目では、細かい事項の暗記よりも、日本と欧米などとの相違を教え考えさせる教育が望まれる。主要な宗教の間の基本的な相違なども教えたら、歴史や国際関係をはじめとして、人文社会科学一般や芸術に対する生徒の関心が高まるに違いない。  この点に関しては経済学にも深刻な問題がある。すでに論じたように、主流派経済学は経済社会における文化の役割をまったく考えてこなかった。考えてきたのは、私利を追求する個人が契約を通して取引をする(人間関係を結ぶ)世界である。取引費用の存在などのために現実はそうした世界と異なるので、他者に対する期待などの文化的要因が重要な役割を果たす。経済学は、現実から大きく隔たった世界で成立する理論を使って、現実世界を説明し、それに対して政策を提案してきたのだ。日本人が経済学に真剣になれない理由の一つはここにある。 経済における文化の重要性が認識されれば、文化的相違が経済に与える影響にも関心が向けられるだろう。日本の経済学者は、日本文化を考慮して日本経済を分析しなければならない。欧米文化との相違が、組織・家庭・学校・社会保障・自然・環境などに対して異なった見方や政策を生み出すからだ。経済と日本文化の関係という一見特殊な研究は、経済と文化の関係という普遍の研究につながる。そもそも人文社会科学は、科学という名称を有するものの、文化から独立して存在しえない。他者に対する期待だけでなく、善悪の区別や多様な価値の重視の仕方に文化が入り込む。 日本人のアイデンティティを確立するためにも、日本の歴史や文化に対する深い理解が不可欠だ。アイデンティティの弱い個人が、人文社会芸術で深い研究や強い主張はできない。幸いにも、日本は価値観・人間観・自然観・美意識などの文化全般に

NHKの受信料制度はどうあるべきか

イメージ
  2019 年 8 月 23 日に、以下のような文章を日本経済新聞の経済教室欄用に投稿したら、掲載を拒否されました。今後 NHK の受信料制度に関する議論がわが国で高まると予想され、今まで無言だった日本経済新聞も何らかの見解を表明せざるをえなくなると推察されます。以下の文章は経済理論的に正当だと考えられるので、 NHK の受信料制度に関する日本経済新聞の今後の論理展開に注目していきたいと思います。なお 2 年余り前には、大学教育費の卒業後所得に応じた負担に関する私の文章が掲載拒否され、その後似た内容の他者の評論が掲載されたことがありました。 NHK の受信料制度はどうあるべきか 現在、 NHK の受信料制度に不満を抱いている人たちがきわめて多い。深刻なトラブルの発生も多いようだ。その原因は、 NHK の番組を見ないテレビ受信機所有者でも支払わされる高額受信料にある。われわれの経済は基本的に受益者負担原則によって成り立つ。消費者がスーパーで購入する肉や野菜の代金の支払いに不満を抱かないのは、その消費によって自ら利益を得るからだ。現行の NHK の受信料制度はこの受益者負担原則から大きく乖離しているため、それに対する不満は正当といえる。 当然ながら、 NHK の番組を見ないのは、それが他の機会と比べて面白く感じられないためでもあろう。今日は NHK がテレビ放送を開始した当時とまったく事情が異なっていて、多数のテレビ・チャンネルだけでなく、無数のユーチューブ動画や有料配信される映像や音楽も楽しむことが可能だ。テレビ放送開始当時の理念で NHK を運営すると問題を引き起こす。 それでは、なぜ現行のような受信料制度が存在してきたのか。理由はテレビ電波の持つ特殊な性質にある。テレビ放送は肉や野菜と違って、排除不可能性という性質を持つ(正確には「持っていた」というべきだが、この点に関しては後に論じる)。 特定の肉や野菜は、その代金を支払った個人のみが消費可能だ。換言すれば、代金を支払わない個人の消費を排除できる。排除可能性が成立するのだ。 それに対して、テレビ放送はいったん放送電波が供給されると、受信料を支払わない個人も受信可能になる。つまり、受信料を支払わない個人の消費を排除できない。これが排除不可能性である。この性質があるため、テレビ放送は

経済学部は必要なのか(84) 好奇心と創造性の育成

イメージ
好奇心と創造性の育成  幕末に米国人から蒸気機関車の模型を見せられたとき、日本人は好奇心を示してそれに近づいて行ったといわれる。遠巻きに見た他国の人たちとは違っていたようだ。この特徴も日本人の比較優位といえる。好奇心は知識欲や創造性につながるので、それを育成する教育が必要だ。  本評論が強調した広い分野の勉強は好奇心を増大させる。人間は異質のものを体験したときに好奇心が高まるので、一分野だけ、文系だけ、あるいは西欧だけの勉強では、大きな好奇心が育たない。主流派経済学だけの勉強も同様で、現実社会の人間が苦悩している問題に対する好奇心を高めない。米国基準で考える経済学徒は、米国以外の国の問題を深刻に考えようとしない。  ちなみにコペルニクス(一四七三~一五四三) は、天文学だけを学んで地動説を唱えたのではなく、若いころのかなりの時間を法学や医学の勉学に割いた。そして、その後の彼の生活は法学や医学の知識によって支えられている。  好奇心を高めるもう一つの方法は、教育において観察や実験を重視することだ。実際に自分の目で見て、自分の手で操作してみれば、どんな対象に対しても好奇心が生まれ、工夫意欲も湧いてこよう。学問は遊びの一種なのだ。書籍で学ぶこととは異質の好奇心である。観察や実験で創意工夫を重ねれば、将来の仕事においても創意工夫を試みるようになるに違いない。  観察・実験・創意工夫の精神の増進に有用なのが芸術科目だ(荒井、二〇〇九)。作文・作画・工作・作曲の教育には、生徒が自分でテーマを決め独自の作品を創り上げるという研究類似の要素があり、研究心の育成につながる。それらは感性向上にも役立つ。個々人のもつ研究心こそが日本経済の生産能力を決める。創造や技術革新の過程は、試行錯誤によって新しいことを考え出し、結果を観察することの繰り返しにほかならない。芸術教育はそのための訓練になるのだ。  数学科目では観察・実験・創意工夫が一見不可能に思えるが、必ずしもそうではない。数学嫌いが多い原因の一つは、難問などを解かせる受動的な勉強が支配的なことにある。自分から問題を作らせる教育をすると、数学に対する生徒の好奇心が高まるはずだ。たとえば、中学数学で図形問題を各生徒に作らせると、生徒がたいへん面白がり授業が盛り上がるだろう。 問題集が多数出版されているので、