平成30年1月7日 日本の英語教育をどうすべきか

 比較的若い年齢から真面目に英語を学習すれば、将来は英米人と自由に会話や議論ができるようになる、と文科省の官僚をはじめ多くの日本人が信じているかもしれない。こうした信念に基づいて、今日の小中高大の英語教育がなされていると推察される。
しかしこの信念は完全な誤りであることを、ここで指摘しておきたい。私自身が多大な時間を英語学習に投入し、また日本人としては英語のできる多くの人たちを観察してきた結果、こうした確信を抱くようになった。
そのため今日の日本の英語教育は、努力と資源の壮大な無駄遣いを生み出す強制労働にすぎず、その効果は小さいと考えている。こう指摘され以下の私の主張を知れば、賛成する日本人も多いであろう。私の考えの要点を記しておきたい。
 まず、英語がたいへん複雑で外国人にとって習得困難な言語であることを認識する必要がある。特に、印欧語に属さない日本語を母語に持つ日本人には習得がきわめて困難だ。ほぼ不可能ともいえよう。その理由はいくつかある。
第一に、英語は仏語や独語などと比べても単語数がきわめて多い。単語数が多いと、記憶することが大変なだけでなく類義語が多くなり、それらの間の微妙な相違の理解も必要になる。それだけでなく、英単語の使い方には規則性が少なく、それぞれ暗記しなければならない。第二に、英語には動詞と前置詞などが結合して特別な意味を生み出す句動詞(get onなど)が多数あり、それも記憶しなければならない。第三に、さらにイディオムという特殊な表現もあって記憶していなければ、円滑な理解ができない。
以上は記憶の問題であるが、英語の論理にも理解困難な側面があり、日本人が完璧に理解することはまず不可能である。その一つが冠詞の使用だ。日本人が冠詞とくに定冠詞を正確に使うことはほぼ不可能かもしれない。かつて、著名な同時通訳者に冠詞はどう学習したらよいかと尋ねたことがある。答えは、冠詞だけはどうしようもないというものであった。これが、第四の習得困難な理由である。
第五の理由として、数の扱いに関する英語の論理を挙げたい。数えられる名詞として扱うか否か、単数とするか複数とするかの問題である。英語は数に対するこだわりの異常に強い言語のようだ。冠詞と同様に、辞書を調べただけでは十分正確に表現できる問題ではない。英語を話す場合は辞書を使えないので、事態はもっと深刻だ。*
 英語にはこうした特徴があるので、普通の日本人が英語を自由に使いこなせるようになることは不可能である、とまず認識すべきだ。努力とか教育法の改善とかで解決できる問題ではない。外国語に関する人間という生物の能力の問題なのだ。それではどのような英語教育が望まれるのか。私の考えの要点を述べてみたい。現行の教育方法と大きく異なる(私のツイッターでも部分的に述べたことがある)。
 教育によって授与したほうがよい知識はほとんど無限にあるが、教育に使える資源とくに生徒や教師の時間は有限であることを、まず理解する必要がある。限られた資源しか教育に使えないので、大きな教育効果の期待できる知識だけを学校で教えるべきだ。今日の日本の教育は、効果の小さい英語教育に資源を使いすぎている。
 多くの人が教育によって身に付けさせたいと考えている英語能力は、英米人と支障なく討論できるレベルだと推察されるが、そのような能力は日本人1000人に1人くらいにあれば十分であろう(正確な比率は各分野の必要度を考慮して決められよう)。そうした能力を有する人材は、語学の潜在能力のきわめて高い大学生に、毎日英米人と長時間話せる機会を与え、英語漬けの勉強をさせて育成するとよい。もちろん、専門分野の勉強も英語を通して行うことになる。帰国子女の活用も有益だろう。こうして育成された人材は、外交・国際会議・国際ビジネスなどで大いに活用すべきだ。英語を使って国際舞台で活躍できるからといって、彼らの報酬を格別高くする理由はない。その養成に多額の費用がかかっているからである。
 大学生の2割ほどには、まずまずの英語力を習得させる程度でよい。2割の大学生とは、苦しい勉強に対する耐性が比較的強い者である。彼らに必要な英語力は、自分の専門分野の英語文献が自由に読め、意味の通じる英語が書けて、海外のプレゼンテーションなどにおいて下手であっても英語でなんとか意思疎通ができる程度でよい。今日の日本人のなかにも、この水準の7割程度の英語力を有する者はかなりいると推察されるが、彼らの話す力と書く力を高める必要がある。週1回くらいは英語を話す機会が与えられないと、話す力は落ちてゆくであろう。
 日本人の約9割、すなわち大部分の日本人は苦労して英語を学習すべきでない。高校12年レベルの読解力と文法知識で十分だ。社会に出ても、彼らは仕事で英語を使うことがほとんどなく、英語力はほぼ不要だからである。すると次の点が重要になる。すなわち、彼らは多大な英語の勉強をするかわりに他の勉強に十分な時間を使い、日本語でできる自分の仕事において世界一の業績を達成すべきだ。
小学校の英語教育が始まってしまったが、以上の理由で、将来は一部に制限すべきだと私は考える。英語に不得手な小学校教師が英語を教えると、日本人の英語力を悪化させる。悪い発音などを矯正するのはかなり困難だ。(一部の)小学生に対して英語教育を行うならば、発音と抑揚の訓練が一番重要になる。週2回の授業であれば、1回を英米人の授業、他の1回をビデオ授業にすべきだ。
日本人の英語教育に多大な資源を使うよりも、文書と音声の自動翻訳が可能なAI技術の開発に全力を投入することのほうが、日本にとって格段に有益である、と私はずっと以前から主張してきた。効果のない今日の英語教育の多くをやめ、その資源をAI技術の開発につぎ込めば、日本の情報産業も大いに繁栄するに違いない。日英の自動翻訳に成功すれば、その技術は他言語間の自動翻訳にも使えるだろう。
 最後に一言つけ加えておきたい。人間には母国で母語を使える権利があると私は考える。非英語圏の人たちは団結して、世界の言語が英語一色に塗りつぶされないようにすべきだ。世界の言語の英語化が推進されると、英語を母語とする者以外の多くは、努力しても社会の下層に押しやられる。英語圏の人間による世界支配は回避されなければならない。母語を使える権利の世界宣言を勝ち取りたいものだ。

*前置詞の正確な使用も容易でない。ただし、英語を書くときは辞書を使えばかなり正確な使用が可能になる。

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