経済学部は必要なのか (9) 知識の哲学としてのリベラルアーツ


知識の哲学としてのリベラルアーツ
大学は職業教育の場ではない。教養ある有能な人間を育成する場である。日本では明治維新のころに、スコットランドの大学で『大学教育について』講演を行ったジョン・スチュアート・ミルはこう述べた(ミル、二〇一一)。大学が学生に教えるべきは、専門的知識ではなく、人類の体系化された知識とその使い方すなわち知識の哲学である、と彼は主張する。一分野の学問に没頭することは、精神を偏狭にし、偏見を生む。小さなことに熟達すればするほど、人間性はますます矮小化し、重要なことに対して不適格になる。彼はそのように説く。
講演の行われた一五〇年程前と現在とでは人類の知識量が格段に異なるため、ミルの主張をそのまま今日の大学に適用するのは問題である。今日では大学で専門分野の体系的教育を行わざるをえない。しかし、一般教養の重要性と職業教育に偏することの危険性を強調する彼の考え方は、依然として有効だ。なお、一般教養は現在いくつかの異なった意味で使われているが、ミルのいう一般教養は、多分野の体系化された知識とその哲学を意味するリベラルアーツとみなすのが適切だと私は考える。
さらに、他国の理解にはその国の眼鏡をかけてみる必要があるとし、一般教養の一環として他国の文化を謙虚に学ぶことの重要性をミルは説く(彼が重視するのは古代ギリシャ・ローマの言語と文学)。これは、今日の米英人の思考や、英語の著作によって世界の大学を序列化しようとする彼らの戦略に対する批判にもなろう。米英人ほど他国文化に無関心な民族はおらず、彼らの多くは他文化を学ばずに、自文化が最高だと信じている。
ミルは次のようにも説く。「高貴な心情ほど教師から学生へと容易に感染していくものはありません。今までにも、多くの学生たちは、一教授の強い影響を受けて、卑俗で利己的な目的を軽蔑し、この世界を自分が生まれたときよりも少しでも良いものにしてこの世を去りたいという高貴な大望を抱くようになり、そしてそのような気持ちを生涯持ち続けたのであります。」残念ながら、教養教育の衰退や経済学のいびつな発展などによって、こうした大志は今日の経済学部の教師や学生に見られなくなった。「卑俗で利己的な目的」が尊重されているのである。
ミルに対する批判も付しておきたい。この講演でミルは、「わが国が植民地や諸外国に対していかなる態度をとるべきかに関して合理的な説得を行うことのできる能力を是非とも身につける必要があります。」として、植民地における搾取を当然とみなしている。植民地支配は「卑俗で利己的」であるのに、それに対する自省や問題意識が見られない。軍事力や英語による世界支配を当然視する今日の米英人と同様に、ミルといえども、自国の対外政策に関しては批判精神を発揮するのが難しかったようである。

ミル、ジョン・スチュアート『大学教育について』(竹内一誠訳)岩波文庫、二〇一一年。

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