経済学部は必要なのか(10) 諸理念の体系としてのリベラルアーツ


諸理念の体系としてのリベラルアーツ
 ミルの大学論はオルテガの『大学の使命』(一九三〇年)に受け継がれた(オルテガ、一九九六)。一般教養ないし教養(文化)は、人生の密林に通路を造る諸理念の体系すなわち世界観だと彼はいう。個人や人類の行動指針だ。それは宇宙に関する明瞭にして確固たる理念であり、事物と世界の本質に関する積極的な確信であるとする。この(一般)教養も、多分野から得られる体系的知識や哲学を意味するリベラルアーツである、と私は解釈したい。
 「中世の大学と比較してみると、われわれの時代の大学は、当時萌芽の状態にすぎなかった専門職教育を法外に拡大し、さらにその上に研究活動を付け加えた。そして教養の教育や伝達は、ほとんど完全に放棄してしまった。」と彼は嘆く。その結果生まれたのが、直面する重大な諸問題にうまく対処することのできない「新しい野蛮人」であると説明する。「この新しい野蛮人は、とりわけ専門家である。以前よりもいっそう博識であるが、同時にいっそう無教養の技師、医師、弁護士、科学者等の専門家である。」と彼はいう。
経済学の閉じた世界に安住する経済学者は、新しい野蛮人の典型だ、と私には思われる。経済学者ほど他分野の考えに耳を傾けない研究者はいない。反面、学界内における激しい相互批判は他分野でも悪名が高いと聞く。経済学者は、オルテガの意味の一般教養や文化に対して極度に無関心なのだ。彼らは経済学特有の論理で論文を書くことに熱中し、それを自慢している。また、経済学界内で高く評価されるのは、一般人の意表を突く結論をもつそうした論文なのだ。経済学では個々人の倫理的行動に期待する議論をしてはいけない、というような主張をする経済学者もいる。
 産業革命を境にして、人類の共有する知識の量は指数関数的に増えてきた。ミルの時代から半世紀ほど後に生きたこともあって、オルテガは大学の最も重要な使命を「教養(文化)の伝達」だけでなく「専門職教育」も含むとしている。「科学研究と若い科学者の養成」も大学の使命とみなしているが、それに対しては二次的な重要性しか付与していない。
 ただ、研究と教養の間の重要な関係をオルテガは指摘する。教養は多分野の真理を基礎として人類がつくり上げた理念・文化・精神の体系なので、研究の生み出す真理が教養の内容に影響するのは確かだ。明確に真理に反する考えは教養たりえない。他方、教養は真理の探究方法・科学方法論に影響する。たとえば、人類を不幸にする研究は容認できない(何を不幸とみなすかも教養に依る)。そのため、研究と教養の間には相互作用があるというのがオルテガの主張だ。
 オルテガは科学を「生命化」して「健全な永続を図ることが肝要で」あると説く。「そこから科学が生まれ、またそのために科学が作られている人間的生に、適合した形式を科学に付与しなければならない」という。経済学の問題は後の章で詳論するが、今日の経済学は生命化と逆方向に最も遠くまで進行した社会科学分野といえよう。
私は学生だったとき、経済学会の会長も経験した著名な日本人経済学者に対して、「経済学は人間性をもっと考慮する必要があると思う」と意見をいったところ、「経済学で人間性などといってはいけない」と叱られたことがある。「経済学が自己利益ばかりを重視するのは問題だと思う」と問うと、「私利の追求が経済のダイナミズムを生み出すのだ」と諭された。経済学で顕著な業績を挙げる研究者は、人間性などを考慮しない研究理念をもつ人なのだ。
なお一九四九年に東大総長の南原繁は、戦後の大学改革に関連して次のような主旨の演述を行った(南原、二〇〇七)。人間の思惟と行動を導くものは、個々の科学的知識や研究の結果よりも、異なる専門分野を総合する有機的な知識であって、そうした生ける知識の体系とそれに基づく文化や文明に関する知識が教養で、その教育が望まれる。この主張は右でみたミルやオルテガのものの焼き直しにほぼ等しい。東大総長の演述に種本があったとは驚きである。そうした地位の人間ならば、もっと独自の見解を表明すべきだろう。

オルテガ・イ・ガセット『大学の使命』(井上正訳)玉川大学出版部、一九九六年。
南原繁『新装版 文化と国家』東京大学出版会、二〇〇七年。

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