経済学部は必要なのか(11) 教育と研究は分離できるか


教育と研究は分離できるか
 オルテガが理想とする教育と研究の関係についてコメントしておきたい。それは、「教師も学生もともに学問(研究)のためにいる」大学で「研究を通じての教育」がなされることを目標とするフンボルト理念(潮木、二〇〇八)と異なる。オルテガは、研究に従事することを、学生だけでなく大学教師の必要条件にもしない。ただし、「『教師』としてのみいる者は、発酵しつづける科学の経過にたえず接触し、科学に刺戟され見守られて、働いてゆくであろう。」として、研究しない教師も研究成果一般を理解している必要があると説く。
 研究しない大学教師でも、学部レベルの標準的な教科書の内容を教えることは可能かもしれない。だが彼らの講義には深みが欠けるであろう。研究している教師であれば、教科書の内容の問題点や関連する研究の新展開などを講義の合間に話して、学生の好奇心を喚起できるが、研究していない教師はそうすることが困難だ。テレビに登場するスポーツ解説者のほとんどが、かつては一流選手であったこともこれと関係していよう。特定の事柄に十年以上にわたって自ら苦労したことのある者しか、深みのある話をすることができない。
 また、日常的に研究していない教師は、学部ゼミの指導が十分に行えない。常に新しい問題を考えている研究者でなければ、卒論指導は困難だろう。大学院のゼミ指導などは不可能なはずだ。学部や大学院のゼミの目的は、特定分野の知識の伝達だけでなく、思考の仕方や思考を論文に表現する方法の指導である。研究しながら多量の文献を読んでいなければ、それは不可能だ。そもそも自ら独創的な研究をしていなければ、論文などの文献を読む意欲が湧いてこないだろう。
あえていえば、一般教養として、いくつかの分野の代表的な論文だけを読むことさえ、正当な勉強方法とはいえない。そもそもどれが代表的な論文であるかも容易にはわからないだろう。特定の問題に関連した多くの論文を、自分でそれぞれの位置づけをしながら読むことが、本来の論文の読み方である。
 これと同様に、医師養成の教育と医学研究は違うことをオルテガは強調するが、このことも問題を含む。研究に実際に従事し、それに関する知識をある程度もっていなければ、臨床医師は最新の研究成果を十分に評価できない。また、臨床の事例から医学研究に発展することは普通に見られる。経済学でも同様で、経済学の実証研究を自らせずに、計量経済学の理論や実証研究の結果を解説することは実質的に不可能だ。
近年、学術論文(や学術書)の業績のない者でも、大学教師として採用される例が少なからず生じている。採用されてからも論文の業績は義務とされていないのだろう。採用前に論文を書いたことのない者が、採用後に書けるようになるということはまずないからである。学生集めのための有名タレントであろうと、大学が生き残るための受け皿要員であろうと、このような人たちは、卒論指導などの重要な教育を行えない。通常の講義でも学問を語れないだろう。それどころか、講義自体ができないという噂を聞く。大学の基本理念を歪める可能性も高い。
文科省による幹部の大学天下りに関する組織的な斡旋事件が二〇一七年に表面化した。国家公務員法に違反する(疑いのある)そうしたことが、大学では行われているのだ。最近唱えられている実務経験者採用義務も重大な問題を含む。
大学は大学院修了や博士号などの共通の知的背景をもった人たちの職業集団によって運営されるべきで、知的背景があまりに異なる人たちが加わると、大学文化自体が劣化する可能性がある。大学とはもともとそのような組合団体だったのだ。

潮木守一『フンボルト理念の終焉?』東信堂、二〇〇八年。

コメントをどうぞ

荒井一博のホームページ
http://araikazuhiro.world.coocan.jp/
荒井一博のブログ
荒井一博のツイッター




コメント

このブログの人気の投稿

経済学部は必要なのか(39) 御用学者の公共心

Twitter:過去のツイートの整理 (2) 2018年(b)

経済学部は必要なのか(28) 勤勉で勉強好きな日本人という神話