経済学部は必要なのか (8) リベラルアーツ教育の意義


リベラルアーツ教育の意義
 リベラルアーツ教育の必要性は、他の今日的な理由からも高まっているので、多少の重複を厭わずそれらを整理してみたい。その一つは、広い分野に関係し複雑化している問題が現代社会に多いことである。たとえば少子高齢化は経済学・社会学・法学・医学などに関係する問題で、単一分野の知識のみでは適切な政策を見出せない。人工知能の開発には、関係工学だけでなく脳科学・心理学・法学・経済学の知識も不可欠だろう。原子力発電の問題解決には、各種工学のほかに経済学・心理学・資源・地震・津波の知識も必要になるに違いない。
 もう一つの理由は、いくつかの分野で専門化が極度に進行し、危険を伴う技術が生まれつつあることである。典型例が核兵器だ。一部の物理学者が極限まで専門知識を追究して、それを生み出した。最近の北朝鮮問題から明らかなように、それは今にも全人類を滅ぼしかねない危険な兵器で、全世界の人々の心理や国際関係に暗い影を落としている。生命科学や医学や人工知能にも人類を危機に陥れる要素があると予想する人が多い。今日の世界で優勢となった新自由主義は、経済学の一面的な論理を極限まで推し進めて得た考え方であるために、数々の深刻な問題を生み出している。研究には一分野以外の広い知識も必要なことが明らかであろう。
 また、リベラルアーツは専門知による思考の制約を解き放ち、異なった視点からの考察を可能にする。経済学が対象とする問題はしばしば社会学や法学の対象でもあり、それらは経済学と異なった論理を使って結論を導き出す。そのため、これらの複数の分野の知識を有すると深い理解に到達できよう。これは現代の悲願である学問の統合にも資する。これとは別に、外国の言語や宗教に関する知識を有すれば、自分の立場を相対化することが可能だ。古典や歴史を知っていると、現代の思考を相対化できる。
さらに、教育は生産活動のためだけに行うのではない。労働者には家庭生活や市民生活があり、特に今日では定年退職後に労働しない長期の生活がある。教育はそうした生活のためにも必要だ。草木の名前を知っているだけでも楽しいように、自然や社会や人間に関する豊富な知識は人間を幸福にする。換言すれば、リベラルアーツ教育には私的な非金銭的便益もあるのだ。
 かつて作家の曽野綾子が、「(自分は)二次方程式を解かなくても生きてこられた」とか「二次方程式などは社会へ出て何の役にも立たないので、このようなものは追放すべきだ」といったという。私は中学時代に二次方程式の解を学んだが、この程度の数学を教えずに現代のリベラルアーツ教育など実行不可能であると考える。今日の複雑な社会の指導者になる人物には、たとえ文系であろうと大学教養レベルの微積分・線形代数・数理統計学などの知識がほしい。
自分の人生で不要だったから社会でも不要だという主張をすべての人が行い、それが実現したら、学校で教えるべきことはほとんどなくなってしまう。日本語文法や古文・漢文の知識がなくても、多くの人は生きていかれるであろう。だからそれらの教育も追放すべきだ、と作家は主張できようか。
経済学部生は他学部の知識にもっと関心をもつことを私は特に望む。その理由の一つは、経済学が伝統的に完結した体系という姿勢を貫いてきたことにある。後でも論ずるように、経済学は他分野の研究成果と独立に成立する閉じた学問とされてきた。そのため、経済学者には(道具として使う数学以外の)他分野に関心のない人が多い。その結果、経済学が生み出す結論は、他分野の研究者や一般人に、いびつだとみなされる場合が珍しくないのだ。経済学者自身はあまり気づいていないが、「経済学者は異星人」と考えられがちである。最近は行動経済学で他分野との交流がようやく部分的に始まったものの、すべての経済学徒が、他分野の知識も習得してバランスの取れた議論をすることが望ましい。

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