経済学部は必要なのか(12) よき市民や組織成員のための教養


よき市民や組織成員のための教養
 高潔な紳士になるためには教養が必要だといわれる。逆に、教養が生む倫理は金儲けに無用だといわれることもあろう。私利追及を正当化する経済学は後者の見解に近い。他方、教養はそれ自体が目的であって、実利のためのものではない、といわれることも多い。
 多くの論者の理解に反して、紳士や倫理的な人間を養成する教養教育には、私的および社会的便益がある。しかも、それぞれに金銭的・非金銭的便益の両方があるのだ。なぜなら、そうした人物は経営者や専門家などとして、長期的にみると概して生産的であり、組織や社会一般の中で他者に利益を与えうるからである。
倫理的人間は努力家で向学心も有するが、残念ながら他者から嫉妬され利用されて、不利な立場に陥れられることが多い。教養が有用なのは間違いない。しばしば「装飾としての教養」という否定的な表現が使われる。しかしそうした教養でも、倫理性を高めるのであれば便益を生み出す。
 私はかねてから公共心の教育の重要性を主張している。公共心にも生命を賭すほど強いものと、必要に応じて適切な意見を述べたり社会や組織をある程度利する行動をとったりする相対的に弱いものとがあり、紳士などに関してここで問題にされているのは、どちらかといえば後者だ。
 そして荒井(二〇〇二)において次のように述べた。「一般教養は『よき市民』を生み出す。社会が円滑に機能し、生産効率が高まり、人々が幸福に暮らせるためには、各人が他者に配慮し公共心をもって行動する必要がある。個人間には相互依存性があり私利追求原理では社会がうまく機能しないと理解されたときにはじめて、『よき市民』になるための一般教養の必要性が認識される。そのときにのみ、『人はいかに生きるべきか』という問いが本当の意味を持つ。したがって、一般教養の習得は文化として半ば強制的に社会の成員が行わなければならない。本来的に、個々人の判断で一般教養の習得量を決めるべきではない。」ここで「社会」を「組織」と言い換えてもよく、一般教養は「よき組織成員」を生み出すということも可能だ。
 大学設置基準の大綱化、すなわち教養教育の規制緩和が行われたのは、一九九〇年代においてである。すでにこのころには、就職を最優先して大学生活を送る学生が多く見られた。就職も大切だが、そればかりに熱中する学生のなんとも頼りないことか。個人の私利追求行動を正当化する新自由主義的な思考が、この当時の日本社会にすでにかなり滲透していたのである。
そのため、教養教育は規制緩和するのではなく、公共財供給のように、大学の必修科目を通して促進すべきであった。もちろんその内容は、過去のものを大幅に改善する必要があろうし、各大学の卒業生に期待されるおおよその将来像に合わせる必要もあろう。ミルやオルテガの精神を多少なりとも組み込んだものであるべきだ。大学設置基準の大綱化は誤りであった。

荒井一博『教育の経済学・入門―公共心の教育はなぜ必要か』勁草書房、二〇〇二年。

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