経済学部は必要なのか(13) 全体に配慮する精神


全体に配慮する精神
 広い視野からの思考を促す一般教養は、社会(組織)における自分の行動が他者に与える影響も考慮する姿勢につながるであろう。二〇一六年四月二日の『日本経済新聞』夕刊で、鳥養鶴雄が興味深い話をしている。「今の航空機は設計に多くの技術者が関係するので、個人が発想できる範囲は狭いと考えがちです。けれどそれは違います。全体を見回し、自分の分野が、全体にどう影響するかを常に考えるべきなのです。それがなければ面白くないでしょう。私はYS11などで尾翼の設計をしましたが、尾翼は全体に大きく関係します。大切なのは常に全体を見回す心。これは、航空機にとどまらず、モノづくり全般に通じることです。」
 組織や社会において常に全体に目をやり、全体のなかで自分のすべきことを考える。その際には、広い知識がなければ、全体にとって最適な自分の行動を決定できない。この点において、日本文化は西欧文化よりも優れた人間行動を生み出し、生産活動で比較優位を発揮してきたと私は考える(荒井、一九九七)。日本文化を再認識し、こうした行動にふさわしい教養をもつ日本人が多くなれば、日本社会は輝かしいものになろう。新自由主義的な思考に強く支配された今日の日本人は、この視点からも教養を考え直す必要がある。
 斎藤(二〇一三)の次の指摘も、これと部分的に関係するであろう。「正義を見極めるためのさまざまな情報を有しているかどうか、そしてさまざまな視点から状況を分析して自分なりの行動原理を導くバランス感覚を備えているかどうか、それが教養を身につけているかどうかの大きな指標になると思われる。」若いときに古典を中心とする質のいい情報に接しておくことが大切だ、と彼は説く。
 ただ私は彼の論説に物足りなさも感じる。「自分が学生であったときも含めると、過去三十年以上、語学・文学・人文系の大学院生や専門的研究者たちとつき合ってきた。その多くが学術的さらには人間的にバランスの取れた学者であり教養人であることは間違いない。」と彼はいう。しかし、それほどの教養人がいるのであれば、今日の日本社会の惨状はなぜ発生したのか、という疑問を私は抱く。なぜ彼らは指導力を発揮したり、現状を強く批判して改善を要求したりしなかったのか。
教養は狭い人間関係に表れる人格だけの問題ではなく、広い社会に対する言動を伴わなければならない。人文系研究者には、リベラルアーツの一部としての政治経済の知識や批判精神が足りないのではなかろうか。
さらに、東日本大震災時に東大の人文系研究室などで複数の教員が行った食料配布などを見て、「このとき私は、この同僚たちと一緒に働いていることを心底誇りに思った。・・・少なくとも、『教養』を旗印に揚げる学部では、人が人を思いやり、お互いに情報を提供し合い、そして助け合っていた。」と彼は述懐している。私は教員のこうした行動を悪く思わない。しかしこの震災時には、他者を助けるために、自分の命を放擲した一般人が何人もいた。そうした犠牲的行為と比べると研究室における食料配布は些事で、ことさら大学人の教養を称賛する根拠になりえない。大きな自己犠牲をして社会や組織に尽くすのが真の教養人だといえよう。

荒井一博『終身雇用制と日本文化-ゲーム論的アプローチ』中公新書、一九九七年。
斎藤兆史『教養の力-東大駒場で学ぶこと』集英社新書、二〇一三年。

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