経済学部は必要なのか(59) 経済学と米国文化


第六章 経済学による米国の世界支配
経済学と米国文化
 将来の学長職を狙っていると推察される経済学教授が、大学の公の場で他の教員に向かって、英語による講義のデモンストレーションを行ったことがある。その際、経済学に強くなる秘訣にも触れて、「アメリカ人のように振る舞え」とアドバイスした。人生を長く経験すると驚くことに遭遇するが、これも私が呆気にとられるほど驚いた例の一つだ。
本人は米国に留学してから国際学術誌に論文を発表しており、それを踏まえて経済学に対する心構えを伝授したつもりだったのだろう。米国人を模範として、同じように考え行動すれば、研究業績が挙がり、英語でも円滑に講義ができるようになる、と彼はいいたかったに違いない。
だが、このアドバイスから、その教授の内面が知れてしまった。経済学を多少勉強したことのある者ならば、それを聞いたときに、その意味が「無理をしてでもアメリカ人のようになれ」ということであると理解できるはずだ。その教授自身は、米国人に近づこうと考え、困難に耐えながら努力してきたのであろう。改宗の努力にほかならない。そうした経験が「私は苦労して改宗したので、あなたもそうしなさい」というアドバイスになったのだ。
このアドバイスは、「新古典派経済学には宗教の要素がある」と先に指摘したこととも関係する。大学で教えられている経済学一般は、米国文化を色濃く反映した「アメリカ教」ともいえそうな宗教的要素を含む。特定の「宗教」に関して多弁になり著書や論文を多く書ける人間は、それを強く内面化して常にそのことを考えているはずだ。「経済学で多くの業績を挙げたいと思うならばアメリカ教を信じよ」とその教授は諭したともいえる。国際学術誌に多くの論文を掲載することが経済学者の最も重要な職務であれば、これは適切なアドバイスといえよう。
 経済学において問題とされる価値は、米国人の好む「自由」や「独立」であって、日本の伝統文化の「遠慮」や「思いやり」ではない。標準的な経済学の教科書に後者の概念は見られない。日常的にはきわめて重要な「信頼」の概念さえないことを、私は他の著書で指摘したことがある。経済学は世界の一部地域の文化を色濃く反映した「宗教」なのだ。日本文化が今日の経済学の教育と研究の障害になることが理解できよう。日本人がいまだにノーベル経済学賞を受賞していない最も重要な理由がここにある。
 国際学術誌に論文をいくつか発表していて、学界で業績があるとされている日本人経済学者のほとんどは、心底「アメリカ教」を信じようとしているのだろう(一部の社会心理学者にもこの傾向があるようだ)。米国は人種差別や侵略や犯罪などの重大問題を有する国であるのに、彼らは米国を批判しない。そうした人たちが学会の会長になり、日本の経済学に対して指導的な役割を果たす。彼らにとっては米国経済こそが標準であって、それと異なる制度や政策は誤りで批判の対象になる。
 彼らも日本で育ちもともとは日本文化を身につけていたはずであるが、米国に留学したり米国の学術誌に投稿したりするうちに、米国文化の殻を身にまとう努力をするようになったに違いない。米国などの経済学者と交流したり、厳しい査読をパスして論文を国際学術誌に掲載してもらったりするためには、米国的な文化を身にまとって研究をするのが得策だからだ。米国の支配的宗教の教徒になれば、米国生活が格段に円滑になるのと似ている。

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