経済学部は必要なのか(63) 拝金主義の進行や文化的劣化


拝金主義の進行や文化的劣化
 過去二十数年の日本経済は誠に冴えない。実質GDPは、バブル崩壊後の一九九二年から二〇〇二年までの十年間に八・一%、二〇一二年までの次の十年間に八・六%成長したにすぎない。米国の値はそれぞれ三九・三%と一八・九%、ドイツは一五・七%と一一・八%である。日本の実績がいかに見劣りすることか。新自由主義は日本経済を回復させられなかった。
文化的劣化はもっと深刻だ。失われたGDPは努力や技術革新で取り返すことも可能だが、劣化した文化を回復させることは不可能に近いからである。文化の主要部分は公共的な精神なので、志をもつ個人が個別に努力しても、維持したり元通りにしたりするのが困難だ。劣化した社会では、個別に公共心を発揮しても利用されるだけである。
米国的な物質文明の影響によって、日本社会に拝金主義も浸透してきた。日本人はもともと「金は汚い」と考えていたが、今では金さえあれば何でも可能になると多くの人が感じている。非倫理的・非合法的手段を使ってでも金を儲けようとする人が多くなった。振り込め詐欺が頻発するようになったのは今世紀に入ってからだ。
企業不祥事の頻発も文化的劣化の例である。一九九〇年代中頃に頻発した事例のほとんどは組織ぐるみであった。日本人が組織内で悪事を働くときは、長である人物を中心とする申し合せ(結託)がほぼ例外なく行われることを、私は以前に指摘したことがある(荒井、二〇〇〇a)。組織は文化的な存在であって、このような不祥事の頻発は文化的劣化にほかならない。
もっと最近の二〇一五年には、東芝が数年にわたり「不適切会計」をしていたことや、旭化成建材が杭打ちデータの改竄を多数回していたことが発覚した。東洋ゴムによる免震ゴムのデータ改竄や化血研による血液製剤の不正も明らかになって、多くの人がうんざりしたことだろう。これらも組織ぐるみだ。拝金主義と個人的な罪の意識を避ける集団主義とが結びついて発生した。第一章で触れた神戸製鋼所の不祥事も同様である。
二〇二〇年開催予定の東京オリンピック・パラリンピックに関連しても、文化的劣化が表面化した。いったん採用されたエンブレムやメイン・スタジアムの案が白紙撤回され再募集されたのだ。世界的に注目度の高い案件で、有識者の選考委員が当事者意識をもって真剣に選考しなかったことを示唆する。自分の金儲けのほうが大事であったのだろう。問題になると他者への責任の押し付け合いが行われた。大きな公的意思決定に際してしばしば利用される有識者会議の無責任な性格が表に出たといえよう。
 文化的劣化はテレビ番組の内容でも明らかだ。同じタレントが頻繁に登場するいくつかのバラエティー番組をはじめとして、内容の軽薄さを嘆く人が多い。文化の質を高める番組は少なく、子供への悪影響は計り知れないだろう。新自由主義は高視聴率番組の放映を正当化するが、それらの質は非常に低い。同様に、新刊書の質の低下を多くの人が嘆く。ハウツー本やテレビ・タレントの本が書店に溢れている。ほとんどがほんの一時的に人気を集めるもので、後世に残ると予想される著書はごく一部だ。ベストセラーとなった本を見て、軽薄な内容に驚くことが多い。
 こうした文化的劣化の根本原因を一言で表すと、新古典派経済学や新自由主義(あるいは自由主義一般)における文化論の欠如といえる。それらには自由賛美の思想があるものの、文化の質を問う思想がない。文化は公共的性格をもつので、放っておくと劣化する。公共心が自然には育成されないのと同じだ。社会全体で文化の質を高めようとする雰囲気が不可欠といえよう。

荒井一博『文化の経済学』文春新書、二〇〇〇年a

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