経済学部は必要なのか(60) 経済学と米国の支配戦略


経済学と米国の支配戦略
このような経済学者が主導して、新古典派経済学を中心とした教科書を使って大学で教えれば、多くの学生も米国を理想化し、日本人としてのアイデンティティを失っていくだろう。日本の経済学部は、日本人を「アメリカ教」に改宗する「教会」になる。幸か不幸か大多数の経済学部生は不勉強なので、この改宗は完全に成功しているといえないが、メディアなどの大学教育以外の要因も作用して、社会一般の改宗活動はかなりの成果を挙げているといえよう。改宗者に求められるのは、細かい論理を操ることよりも、単純な結論を唱えることだ。新自由主義に反対する若者をほとんど見ないことも、日本社会の米国化と精神的植民地化が大きく進んでいる証拠になろう。
もともとの日本文化は欧米の文化と明らかに異なる。今日の文明は中東から地球の東西両方向に進展した結果なので、日米の文化差は地球上でもっとも大きいといえるほどだ。少なからざる人文社会科学の分野が、この差を自明なこととして論を展開している。
この事実に反して、民族間に行動原理の差はないとみなし、異なる文化の経済に同じ原理を適用しようとするのが、経済学の基本哲学だ。たしかに、新古典派経済学のイメージに近い穀物市場や外国為替市場では、あまり差がないだろう。しかし教育・介護・不動産などのように、信頼などの文化的要因が重要となる市場は多く、そこでは民族間で異なった原理が作用する傾向がある。さらに、企業や家庭や学校の中などでは文化が人間行動に強く影響し、民族間で事情が大分異なる。
新古典派経済学は完備契約を仮定し、さらに市場以外の場における人間活動の分析を回避することによって、文化差が経済に与える影響を隠蔽してきた。人文社会学と一口でいっても、その内部では根本において矛盾した主張がなされており、統一されていない。自然科学内にも多数の分野があるものの、人社系ほどの矛盾は見られないであろう。
今日の経済学教育が果たす重要な役割の一つは、米国が尊重する価値を受容する人間の育成だ。そこでは自由・独立・自己利益などの価値しか問題にされない。組織と比べて市場で重視される価値で、私は市場的価値と呼ぶ(荒井、二〇〇一)。米国では市場以外でもこれらの価値の尊重される傾向が強い。アメリカ教としての経済学は、米国の支配戦略の一手段として、他国の文化を効率の阻害要因と主張し、米国的価値観一色で世界を塗りつぶそうとしてきた。米国に敵対する国をなくし、米国が世界で儲けるのに好都合な方法を正当化したり普及させたりしてきたのだ。
特に日本に対しては、原爆投下に対する報復の恐れもあって、執拗な干渉や制度改変要求をしてきた。日本の経済学教育は米国の支配戦略の一翼を担ったことになる。一部の日本人論者は「普遍的価値のある研究」を大学の使命と考えているが、現行のそうした研究の多くは、この支配戦略に自ら加担することにほかならない。
自由などの価値のみを重視する教育は、「人間と社会のあり方を相対化し批判的に省察」し、「文化的多様性を尊重」するという日本学術会議幹事会の声明の趣旨に明らかに反する。必死で米国標準に適応してきた日本人経済学者は、率先して米国の国益に奉仕して、米国による日本人搾取の走狗となったのだ。一九八〇年代以降の日本経済史はそのことを如実に示している。日本政府が育成に躍起となっている「グローバル人材」も、米国の国益に奉仕する走狗であって、日本文化を愛する日本人ではない。

荒井一博『文化・組織・雇用制度日本的システムの経済分析』有斐閣、二〇〇一年。

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http://araikazuhiro.world.coocan.jp/
 



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