経済学部は必要なのか(62) 日本精神の変容と社会科学者の責任


日本精神の変容と社会科学者の責任
 米国と比較すると、日本の伝統文化は「遠慮」や「思いやり」だけでなく、「誠実」や「勤勉」などの価値によっても特徴づけられる。だが、日本社会の近年の変容は、日本を愛する人たちを強く嘆かせるほど酷いといえよう。日本の長所が次々と融解し去っている。「遠慮」や「思いやり」を示す人たちを利用して金や権力を手に入れる者が跋扈するようになった。「誠実」は裏切りや嘲笑の対象になり、「勤勉」よりは手短な金儲けが持て囃されている。寛恕も利用される世の中になったのだ。自己利益を追求して自由に行動することが当然とされ、戦略的に行動し、楽をして利益を上げることを多くの人が考えている。現実が経済学の世界に近づいてきたのだ。
日本は伝統的に他者に対する心の温かみを尊重し、信頼を醸成する社会的工夫をして、世界で称賛される文化を築くとともに、稀に見る経済的成果を挙げてきた。日本の歴史のなかには、思いやり文化を支えた数知れない人たちや、命を懸けて信頼に応えた何百万という人たちがいる。無数の日本人の血の滲む努力によって、わが国の文化は築かれ維持されたのだ。その長所や美点がいとも簡単に崩れ去ろうとしている。
 「自由」や「独立」や「自己利益」を重視する考え方は、日本の近代化とともに徐々に浸透したが、一九九〇年代以降の新自由主義化と労働市場の流動化の過程で浸透が加速し、心理的歯止めを越えた。企業の雇用調整は「自由」とみなされ、社員に対する「思いやり」は消し飛んだ。意に反して企業を放り出され恨みをもった社員が、中韓の企業に利用されて、技術流出を促進したと私は推察する。サムスン電子の日本人顧問団は、目星をつけた日本半導体メーカーの技術者に連絡して、技術情報を一件一〇〇万円ほどで買ったようだ(湯之上、二〇一三)。
 日本社会の変容に対しては、社会科学者に重大な社会的責任がある。まず、バブルを批判せずに放置した経済学者の責任はきわめて重い。「市場は効率的である」と説く「宗教」を無批判的に信じたのだ。そして、流動的な労働市場が効率的であると主張して、首切りを行う企業に「免罪符」を与え制度変更を促進した者の責任はもっと重い。社会心理学者の山岸(一九九八)を含む「アメリカ教」の信者たちである。労働市場の流動化を勧めるならば、流動的な市場に自ら身を投じて垂範すべきであるが、彼ら自身は大学の固い雇用保障の下に身を置いていた。
 流動化と関連するこの時代の言論を読めば、多くの論者が自分の主張したい結論に都合のよい歪曲した議論をしていると知れよう。都合のよい少数の事実だけを取り上げたり、誤った論理を使ったりしているのだ。私はこれを詳細に批判したことがある(荒井、二〇〇〇b)。経済学は科学といえず、宗教的信念に導かれた誤りの経済政策が経済を悪化させ、わが国の政策上の選択肢を今日までますます狭めてきた、といえよう。有効な政策をとることがますます難しくなっている。新自由主義的な経済政策をメディアで得々と語った経済学者に、今日の日本経済の惨状を直視し説明してもらいたいものだ。
 日本の文化的・経済的な劣化に対しても、私はこれまで警告を繰り返してきたが(荒井、一九九七・二〇〇〇a)、劣化は止まっていない。学界を牛耳る経済学者は、劣化に無関心であっただけでなく、日本経済の困窮さえ他人事のように考えていたと思われる。彼らにとっては、自分の論文が米国の雑誌に掲載されることが最も重要なのだ。日本が米国を見習って同様な国になれば問題は自然に解決する、と単純に考えていると推察される。「自虐経済学」とも呼びうる思考法が、多くの日本人経済学者や社会心理学者に存在するのだ。

荒井一博『終身雇用制と日本文化-ゲーム論的アプローチ』中公新書、一九九七年。
荒井一博『文化の経済学』文春新書、二〇〇〇年a
荒井一博「雇用制度のなかの信頼―信頼の定義と山岸俊男学説批判」『一橋大学研究年報 経済学研究』四二、二〇〇〇年b、一〇五-一五五頁。
山岸俊男『信頼の構造―こころと社会の進化ゲーム』東京大学出版会、一九九八年。
湯之上隆『日本型モノづくりの敗北―零戦・半導体・テレビ』文春文庫、二〇一三年。

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荒井一博のホームページ
http://araikazuhiro.world.coocan.jp/
 



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