経済学部は必要なのか(61) 世界支配のプロセス


世界支配のプロセス
歴史上の米英の世界支配戦略は実に巧妙で、多くの人たちが気づかないうちに嵌ってしまう。日本人経済学者が米国化する過程も例外ではない。まず彼らは、学部生時代に経済学である程度良好な成績を挙げる。他の学生よりは多少学力があり、経済学を少しは面白いと感じる人たちなのだろう。彼らは経済の「科学的な」分析手法を学んでいると思い込む。経済学はとても科学といえないので、この段階ですでに戦略に嵌ったといえよう。そして、世界的に著名な経済学者のほとんどが米国人あるいは米国籍だと知って、米国に対する憧れをもち、多くが米国留学をする。
特に学界を主導したいと考える者は、大学に職を得てから、国際学術誌に自分の論文が掲載されるよう必死の努力をするに違いない。できれば有能な共著者(望むらくは英米人)と論文を書こうと心掛ける。学術誌に採用される確率は単著より共著のほうが格段に高いからだ。しかし、共著論文の執筆は、しばしば妥協をともなうので、一著者の独自の思考を抑圧し、米国的思考の受容を促進する。世界で支配的な思考は最終的な妥協点になりやすいからだ。そもそも米国的思考から外れた研究者は、共著者を見つけるのも相対的に困難だろう。
経済学の有力な国際学術雑誌のほとんどが米国で発刊されており、投稿論文が掲載されるための競争は激しい(競争倍率はほぼ十倍あるいはそれ以上)。編集者や査読者の多くは米国人や米国文化を内面化した者なので、必然的に米国的思考に基づく論文が多く採用され掲載される。そのため論文の掲載を切望する者は、四苦八苦して自国文化を捨て米国文化を取り入れて、編集者や査読者に受け入れられる論文を書こうとするはずだ。
この事態こそが米国的な価値の浸透過程の核心部分である。宗主国の気に入るように振る舞う植民地人の行動と酷似しているではないか。宗教グループのメンバーが、苦労してグループの価値を全面的に内面化しようとするのとも似ている。「アメリカ人のように振る舞え」という前述のアドバイスが、経済学徒の心に突き刺さるであろう。
国際学術誌に投稿論文が採用されるのは容易でないので、一部の人間は手段を選ばずに目的を達しようとするようだ。米国人査読者の優越感をくすぐって採用確率を高めるために、事実を押し曲げて日本を貶める内容を書いている、と推察される日本人社会心理学の論文を読んだことがある。事実にないことを言挙げして日本を批判し、謝罪や金銭を要求する隣国の行動に似ている。
このようにして、米国文化を強く内面化した日本人経済学者が誕生するのだ。「アメリカ教」に改宗した日本人ともいえる。社会心理学をはじめとして、国際学術誌の論文が高く評価される他分野でも大同小異であろう。そのような人たちが、わが国の学界で中心的な役割を与えられる。宗主国ともいえる米国学界のお墨付きを受けているからだ。
 今日、世界の大学ランキングに多くの大学が一喜一憂している。その評価では英語文献以外が使われていない。右で述べたことから、この戦略に込められた文化的世界支配という米英の真意も理解できよう。そうした評価法は米国などの英語国のエゴだが、それを「相対化し批判的に省察」する日本人はいないのだろうか。それは他文化を蔑視し先住民を虐殺したり搾取したりしてきた米英の歴史の延長とみなせよう。その歴史全体が厳しい批判にふさわしい。今日の米英人にも、他民族を巧妙に利用しようとする習性が根強く残っているのである。
 「独立」や「公正」や「権利」などの価値を強く主張する米国人ではあるが、その文化や言語による世界支配が他国民に与える害には鈍感なようだ。イデオロギーの真の目的は詐騙さえともなう自己正当化であって、その表明された価値の徹底でないことが理解できるかもしれない。

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