経済学部は必要なのか(57) 人間関係が生み出す幸福


人間関係が生み出す幸福
新古典派経済学が歪んだ世界観を作り出す第三の理論的理由は、それが幸福の源泉として物的満足のみを考えていることにある。消費者の満足感は効用関数と呼ばれる関数の値によって評価されるが、その関数では市場で取引される財やサービスの消費量しか問題にされない。つまり個人の幸福は、それのみによって決まるとされているのだ。物質的な満足を重視する米国文化にふさわしい考え方である。
所得水準が低い段階では、そうした消費がきわめて重要であろう。しかし、先進国になって基本的な衣食住が満たされると、人間関係の生み出す幸福が相対的に重要になる、と私には思われる。家族の温かさ、親族の安心感、職場の同僚の協力や支援、友人の親しみ、社会一般の人たちの親切などが、われわれをこの上なく幸福にするはずだ。しかし、これらの幸福要因は効用関数で考慮されておらず、幸福を生み出すと考えられていない。厚生経済学の第一命題はこうした幸福要因を無視した主張なのだ。
この事実は新古典派経済学の重大な欠陥を意味する。現実社会でその命題の実現を図ろうとすると、右記のような幸福を生み出す人間関係が犠牲になる可能性が高いからだ。それらは個人の自由をある程度抑制することによって維持されるため、個人的自由のみが強調されると消失してしまう。また、同経済学の組織論の空白を突いて、成果主義のごとき自由競争的な制度が組織に導入されると、組織内の信頼や協力などの正常な人間関係が破壊される。これらの点において日本の現実は確かに深刻な状態に陥っている、と大多数の人が認めるであろう。
新古典派経済学は、「法を犯さないかぎり何をするのも自由で、そうした思考や行動が経済の効率性を達成する」という基本思想を有する。このような誤りの思想(荒井、二〇〇九)のために、私欲の強い一部の人たちによって、貴重な人間関係が利用され破壊されてきた。「騙される者が悪い」というような、きわめて非日本的な考え方も生まれつつある。人間が他者のために生き感謝されることによって実感できる深い幸福感は、新古典派経済学の浸透とともに、教えられることも話題にされることもなくなった。嘲笑の対象にさえなっている。過去二世紀ほどにわたって日本の伝統的な価値が蚕食される過程で、どれだけ多くの日本人が辛い思いをしてきたことだろう。そしてどれだけ多くの「日本の良さ」が失われたことか。
物的に満たされるにしたがって、われわれは人間関係から得られる精神的な幸福を重視すべきであったのに、新古典派経済学や新自由主義に惑わされて、逆の方向に進んでしまったといえよう。それを促進した経済学者の責任は甚大だ。この点に関して経済学は人類に大きな害を与えたと私は考える。わが国では二階堂副包らの経済学者が、右のごとき問題点を指摘することもなく新古典派経済学の精緻化を進めた。日本の経済学者は、明らかに自国文化に反することを知りながら、無批判的に新古典派経済学を受け入れてしまったのだ。今日の経済学部の存在意義はきわめて疑わしい。
歴史的に犯罪率のきわめて低かった日本社会が、人間関係の重要性を無視した経済学によって支配されるようになり、児童虐待・いじめ・通り魔殺人など、三十年ほど前にはあまり聞いたことのなかった「人間関係」も発生してきた。正常な人間関係の軽視や競争の生み出すストレスがその原因だと推察される。しかし、新古典派経済学において競争は絶対的な善であって、そうした問題意識はまったく存在しない。
今日の日本社会では、老人の孤独もたいへん深刻な問題になっている。孤独死の何ヵ月か後に発見される老人も珍しくない。命懸けで子供や社会のために働いた人間が、高齢になって子供や社会から見捨てられている。孤独とは人間関係が希薄な状態で効用関数と無関係なので、新古典派経済学はそれも問題視しない。経済学は人間の幸福を論ずべき学問なのに、孤独が人間をきわめて不幸にするという考え方がそこにはないのだ。

荒井一博『自由だけではなぜいけないのか - 経済学を考え直す』講談社、二〇〇九年。

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