経済学部は必要なのか(16)  普遍的価値の追究という主張


普遍的価値の追究という主張
 人社系に焦点をあて、「文系は必ず役に立つ」と強く主張したのが、東大副学長の吉見俊哉である(吉見、二〇一六)。彼は「知識の市場化が進行」し、「『儲かるかどうか』という視点だけで知識の価値が測られるようになってき」たと嘆く。そうした動きに対して、大学は「共同体や国家、企業や宗教といった個別的な価値の限界を超えて、脱領域的、越境的に普遍的な価値を追究・創造」する役割を果たす(べきだ)と論じる。それは「地球社会における未来的価値」だという。「大学は国という単位を超えた普遍的価値に奉仕する存在」であるというのが彼の主張だ。
大学が追究する「この普遍性は、概して業界団体や国家などの利害や価値よりもずっと遠くにありますから、その実現に至る時間は長くなり、射程に入ってくるべき範囲も広くなります。」と吉見は述べ、大学の目指すところが業界団体や政府のそれと食い違う傾向があることを指摘する。「文系の知は、法学や経営学の一部を除くならば、大概は三〇年、五〇年、一〇〇年を視野に入れながら己の価値を考えています。」と彼はいう。文系の知は今すぐ役立たないが数十年後に役立つ、というのが彼の言い分だ。
最近の就職予備校化論に関しては次のように論じる。「大学と専門学校を隔てる最大のポイントは、大学は社会的需要に応じて『人材』を供給する訓練所ではないこと、そのような人材需要の短期的変動を超える時間的な長さや空間的な広がりをもった価値と結びついていることにあります。」
吉見のもう一つの主要な主張は、「グローバル化のなかで国民国家がゆっくりと確実に退潮している」ので、それに対応した方策が必要だということである。これは普遍的な価値の追究と関連しているとみなせよう。たとえば、日本の大学は言語などの壁で防御された「エビやカニの甲殻類を連想させ」るので、英語化などによって国際交流をはかり、壁を崩す必要があると説く。
そして次のような診断をする。日本の大学では「日本語の世界だけに閉じるような仕方で学問的言説が体系化されていったのです。その結果、知的言語世界の一種のガラパゴス化が生じていきます。…日本語だけで議論をし続けていること自体が、日本語を母語としない学生や研究者に対して壁を築き、外部監査を拒むことになってしまうのです。こうした状態が自明化されていくと、日本語でなされている議論の価値を、グローバルな地平で客観的に評価することは不可能です。」
 文科省主導の大学改革に対しては、次のような批判をしている。「(今日の日本における大学危機は)一九九〇年代以降、文科省に先導された大学政策の結果でもあることを確認しておきましょう。この危機は、大学設置基準の大綱化、すなわち教養教育の規制緩和、それから大学院重点化、さらに国立大学法人化という三つの政策によってもたらされました。」「予算誘導型の大学政策が内包するリスクは、大学が自らの才覚と実力、努力で革新的な教育研究のビジョンを打ち出し、自律的な主体として発展していく基盤が育ちにくくなる点にあります。」

吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』集英社新書、二〇一六年。

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