経済学部は必要なのか(18) 大学が奉仕する普遍性の内容


大学が奉仕する普遍性の内容
日本の大学、特に国立大学は国から多額の補助を受けているが、「大学は、人類的な普遍性に奉仕する機関であって、国立大学といえども国に奉仕する機関ではない。」と吉見は断言する。日本の大学が普遍性に奉仕する機関ならば、学生の過半を外国人にしたり、学内言語を英語化したりする必要があろう。日本経済や日本文化を研究することなどは、大学の目的に反するかもしれない。最近強調されている国立大学による「地域貢献の教育研究」も同様だ。
これと関連するだろうが、大学人の日本語による表現に関して、「知的言語世界のガラパゴス化」で、「硬い殻で外側と内側を隔て」る「エビやカニの甲殻類を連想させ」る、と彼は批判する。にもかかわらず、彼のすべての単著・共著書二十冊ほどが日本語のみで書かれているのは矛盾といえよう。日本語で執筆する時間を英語での執筆に使って、自ら垂範すべきではなかったか。
彼は普遍的価値を強調するけれど、その内容を説明しない。新古典派経済学や新自由主義も普遍性を追究した結果生まれた思想である。個別文化は経済の効率性に悪影響を与える可能性が高い、という普遍的な強い主張をもつ。しかも単純明快で、見方によっては美しいほどだ。新自由主義者は、個別文化が労働や資本の効率的使用の障害になるとみなす。今日では支持者を大きく減らしたマルクス主義も、普遍性を追求した思想にほかならない。迫害の歴史をもつユダヤ人がいずれにも重要な貢献をしている。普遍的だから善ともいえない。
そもそも普遍的価値か否か、およびその良否を吉見はどう判断するのだろうか。世界の普遍的価値と今日いわれるものは、往々にして(一部の)西欧人にとって都合のよい価値にすぎない。むしろ、特殊や個別や土着のなかに普遍性が潜んでいる場合もあると私は考える。ある民族の特殊な慣習を世界で普及させれば世界全体の厚生が高まる、ということがありうるのだ。
悪い事例としては日本のものを著書のなかで使うことなどから、吉見は日本を低く評価していると推察されるが、人種差別・植民地主義・原爆などの重要問題に対して、日本人が命懸けで取り組んできた努力には言及しない。こうした取り組みこそが真の世界的普遍性をもつとも私は考える。彼の普遍性大学論は日本悪玉論と表裏一体のようだ。
一世紀余り前に活躍したドイツ人社会学者のマックス・ウェーバーは次のようにいう(ウェーバー、二〇〇九)。「学問にできるのは、ある社会のある人にとっての神とは何か、別の社会の別の人にとっての神とは何かを理解することだけです。・・・これまで何千年ものあいだ、私たちは、もっぱらキリスト教の倫理の偉大な情熱によって、見かけ上であれ、思い込みであれ、方向づけられてきました。そのため、神々の闘争に対する私たちの目はふさがれてきました。しかし私たちは神々の闘争という事実をもっとはっきり自覚するでしょう。それが私たちの文化の宿命なのですから。」
大学は「共同体や国家、企業や宗教といった個別的な価値の限界を超え」ると吉見は主張するが、国家(ないしは国)や企業のみを悪者にし、(ヌスバウムと違って)共同体や宗教は悪者として議論していない。さらに、この主張において国家や国は国民とどう違うのかが不明である。なぜ大学が(部分的に)国民に奉仕してはいけないのか。
ここで世界の普遍的価値すなわちグローバリズムと解釈すると、現時点の世界で生起している世界史的変化は「反グローバリズム」にほかならない。それは米国の大統領選に見られた自国重視や英国国民投票のEU離脱意思にも表れている。これを見逃すと、文系が役立たないことのもう一つの例になろう。

ウェーバー、マックス『職業としての学問』(三浦展訳)プレジデント社、二〇〇九年。

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