経済学部は必要なのか(19) すぐに役立つ知識の問題点


すぐに役立つ知識の問題点
 人社系のなかにも有用性の明白な分野が存在することを、ここで確認しておきたい。会計学や法学に関する詳しい知識は、ある程度多くに人たちが所持していなければ、社会の効率性が低くなる。企業や公的機関などでは会計や法の知識が不可欠であるからだ。これらの知識は、教育を受ける個人にも社会全体にも金銭的・非金銭的な便益を生み出す。
人文系の知識は国際的なビジネスで教養として不可欠だ、という指摘もしばしばなされる。自他の文化や歴史に関する理解がなければ、大きな国際ビジネスは成功しないという考え方で、先述の日本学術会議声明でもそれが含意されているはずだ。西欧社会のパーティでは教養に裏打ちされた会話や振る舞いによって、社会に受け入れられるか否かが決まるともいわれる(立花、二〇一五)。こうした教養は主として金銭的な便益を個人(企業)に生み出す。国の外交の場では、人文系の知識が金銭的・非金銭的便益を日本社会全体に生み出しうるといえよう。
 他方、文科省の委員も務める冨田(二〇一四)は、日本の大多数の大学が高度職業訓練学校になって、すぐに役立つ知識や技能の教育に特化すべきだと主張する。具体的には次のようにいう。「文学部ではシェイクスピアを学ぶのではなく、観光業で必要な英語や歴史・文化の名所説明力を学ぶ。経営学部ではマイケル・ポーターの戦略論ではなく、簿記・会計とそのソフトの使い方を。法学部は憲法、刑法でなく、宅建や大型第二種免許を取得させる。工学部では機械力学や流体力学ではなく、トヨタで使われる最新鋭の工作機械の使い方やウェブ系プログラミング言語の習得。要するに、学問より実践力です。」
 このような教育は、その利益のほとんどが教育を受けた個人に発生するので、国などによる公的補助の根拠を有しない。そのため、特に国立大学でこうした教育を行うのは不適である。また、その教育を受けた人たちは、国家や社会や組織の問題に関して、全体を見渡した賢明な判断をすることがまず不可能なので、指導的な地位に就くことができない。彼らは指示された仕事を黙々とこなす機械のような存在である。
 専門的な知識はごく一部の大学の学生がもてばよいと冨田はいう。「本当にアカデミズムを学生が追求できる大学もあっていい。しかし、それはグローバルで競争できるレベルでなければなりません。理系なら世界一の技術開発、文系なら世界のルールを日本に有利に決められる人間の輩出です。しかし、アメリカだってイギリスだって、そんな学校は数えるほどしかない。」
冨田が想定する社会では、ごく少数のエリートが、知識の限られた大衆を支配する。こうした大衆はここまでにみてきたような教養を有せず、批判精神ももたない。一般市民の批判力が低下すれば、エリートは自己利益を追求するのみであろう。実際のところ、新自由主義が目指したのは、社会的責任感や自国への愛着を持たない少数のエリートが、批判精神のない一般大衆を支配する社会である。ほとんどが簿記や英会話や宅建の知識だけの人たちで満たされた社会は、文化レベルも低くなるはずだ。人付き合いもあまり刺激的でないだろう。右のような教育は公共財的機能をほとんど発揮しえない。
そうした教育において「評価されるのは、さほど適性を選ばない程度の難易度で、いちいち疑わずに使える道具的な知識」である(隠岐、二〇一五)。そして、そこでは「社会空間」が「企業の活動空間」と読み替えられ、「現実社会における個々人の多様な生のあり方への関心や、人々が職業生活を離れた場面で発揮する知的関心に対する考察はほとんどみられな」くなるであろう。
なお、一般教育として共通教育やコンピテンス教育が想定されることもある。その中心となるのは英会話力やコンピューター・リテラシーなどの実践的技能の教育で、冨田の描く教育にある程度近い。その基本的な狙いは、グローバル社会や情報化社会で脱落せず底辺で支える技能を習得させることで、それはここまでに考えてきた教養と明らかに異なる。

隠岐さや香「簿記とシェイクスピア」『現代思想』二〇一五年一一月号。
立花隆「文科省が日本人をバカにする」『文学界』二〇一五年一二月号。
冨田和彦「大学のほとんどを高度職業訓練校に」二〇一四年。

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