経済学部は必要なのか(15) 教養と真正の文化意識


教養と真正の文化意識
 大学が相対的に裕福な市民層を対象とした欧州と違って、国民の広い層を対象とした米国では、一般教養がある程度独自の発展をした。すなわち、そこでは民主主義を支える「よき市民」の育成と基礎知識の教育が主たる課題とされ、一般教養より一般教育(general education)という呼称が多く用いられたのだ。学生には「有効な思考」「コミュニケーション」「適切な判断」「価値の区別」に必要な能力が求められ、自然科学・社会科学・人文科学の教育が行われた。
 今日の米国の大学でも、学部レベルではあまり専門化を追求しない傾向がある。専攻の変更や複数分野の専攻はかなり自由に行うことが可能だ。本格的に専門的な教育は大学院に任せる、というのが今日の米国大学の一般的方針となっている。大学院入学時に専門分野の知識が不十分な学生のための科目も用意されているのが現実だ。
 米国の大学は、学生に自由主義的な民主主義に適応すべきことを強調しすぎて、それが内蔵する欠陥への注目が不十分ではないか、とオルテガ(一九九六)の解説で井上正は問題提起をする。米国の一般教育には、近代文明が現代人の内部に発生させている諸疾患に対する反省が不十分だという。現行の民主主義を最高善とみなして、それに対する懐疑がないという批判だ。自国文明に対する懐疑や相対化が弱い米国社会の一面ともみなしうる。
井上は次のように説く。「オルテガも、近代の科学・技術、民主主義文化の本質的諸原理は、これからも尊重し維持しなければならないと強調する。しかし、一般教養の必要性を力説するのは、その諸原理を尊重するがゆえにというよりは、むしろ、今日それのもつ弱点が、その招来せしめている疾患が、われわれの時代を危機にまで追い込んでいるがゆえに、であった。」既に存在する特定の制度の受容を促進するのが一般教養の役目ではなく、その正統性や病理も問題にする教養が必要だという考えである。
オルテガの意図した教養は、「現代社会の体内に真正の文化意識を喚起させる『精神力』」となるものだ。現代文明を批判的に発展させる精神ないしは倫理ともいえよう。今日の経済学に最も欠ける要素であり、今後の経済学に切に望まれる研究課題である(荒井、二〇〇〇a)。
すべての人間が人生で必ず直面する重大な選択肢は、悪の権力に従うか、それともそれに反対するかというものだ。前者を選べば、屈辱的ではあるが、まずまずの人生が約束されよう。後者を選べば、組織や社会の良化に貢献できる可能性もあるが、自分の地位や命を失うかもしれない。似た選択肢に、誤りの時流に乗るか(多数派に与するか)、それともその問題点を批判するかというものもある。前者を選べば、少なくとも一時的には経済的に恵まれた安泰な生活を送れよう。後者を選べば、数十年後の組織や社会の崩壊を防げる可能性もあるが、自分の生活は経済的に苦しくなるかもしれない。このようなときに、後者を選択できる能力と勇気を生み出すのが教養ないしは文化の重要な役割である、と私は付け加えたい。
今日の日本人がそうした教養や文化を十分に内面化していたら、二〇一七年に発覚した不名誉な不祥事は起こらなかったであろう。すなわち、神戸製鋼所における製品の品質データの改竄である。現場の管理者を含めた多数の従業員が不正を知りながら、何年間にもわたって告発しなかった。現時点で真相は十分に究明されていないが、日本全体のなかのごく一部の企業における不祥事であるにもかかわらず、これは日本人に対する世界の評価を著しく下げる可能性が高い。

オルテガ・イ・ガセット『大学の使命』(井上正訳)玉川大学出版部、一九九六年。
荒井一博『文化の経済学』文春新書、二〇〇〇年a

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