経済学部は必要なのか(17) 文系が役立った例はあるのか


文系が役立った例はあるのか
私は右の主張にいくつかの疑問を抱く。ここでそれを論じておきたい。「文系は必ず役に立つ」と吉見は主張するにもかかわらず、役に立った特定分野(人文学・経済学・政治学など)の事例を一つも挙げていない。もし三〇年、五〇年、一〇〇年後に役に立つのであれば、今から三〇年、五〇年、一〇〇年前に行われた文系の教育や研究が、現時点でこう役立っていると説明すべきである。さもなければ、その主張は永遠に検証されることなく続けられることになろう。
猪木(二〇一六)の次の言説は、過去の経済学の研究をむしろ否定的に評価している。「筆者が長く向き合ってきた経済学や経済史学の世界でも、たとえば五〇年前の学界が何を『権威』としていたのかを振り返ると、『あれはいったい何だったのか』という思いを禁じえない。」
「儲かるかどうか」という視点に吉見は批判的なので、新自由主義に否定的なようだ。私自身も、かねてから新自由主義が生み出す文化的劣化や所得格差などを批判している(荒井、二〇〇〇a)。この新自由主義は、経済学から派生したれっきとした文系思想にほかならない。すると吉見は「役立つ文系思想」の例を挙げていないが、図らずも「有害な文系思想」の例を挙げていることになる。「文系は役立たない」ことを例示してしまったのではなかろうか。
「メディアの記者たち」は文科大臣の「通知を文脈的に読み取ることができ」ていないとして、ほぼ文系出身者ばかりであるメディアの記者たちを彼が批判しているのも、文系が役立たないことの例示になっているといえよう。さらに、大学改革に関して「一五年近く前から問題点や課題が明らかになっていたのに、多くの国立大学で、そうした問題点や課題に対して有効な改革が持続的に展開されてきたようには見えない」という彼の指摘も、大学に勤務する多数の文系教員が、文系の存在理由とされる「新たな価値の創造」をしなかったことの例示になっている。
文科省主導の大学改革に対して、吉見自身は「二〇〇〇年代以降の大学の変化が、『自由』ではなく『不自由』への『改革』でしかないと多くの大学関係者は感じてきました。」と嘆くのみだ。「二〇〇四年度に国立大学法人が発足した当時、その制度設計の議論に参加していた」元一橋大学学長の石弘光が、「この文書(六月八日文科大臣通知)は国立大学法人評価委員会の検討結果を踏まえたもので、大学の自主性を重んじるというより政府主導の大学改革の色彩が濃厚となっている」(石、二〇一五)と、今頃になって大学改革を批判しているのも驚きだ。
私は荒井(二〇〇四)で、法人化が国立大学の「自主性」や「自立性」を生み出すというのは虚構であることを、先駆的に指摘したと自負している。特に、教授会から権力を吸い上げ、巨大な学内権力を掌中に収めた学長が、文科省によっていとも簡単にコントロールされることを指摘した。大学の自主性は明らかに減退し、さらに日本の研究水準も低下したのではないか。
現時点で吉見は次のような指摘をする。「たしかに今日の大学は、一般に思われている以上に劣化しているのだ。この劣化は、少なくとも国立大学法人化の前後から、もっと長くとれば設置基準の大綱化や大学院重点化のころから、もう十数年以上にわたって続いてきた劣化である。そしてこの劣化は、単に大学の予算上のことではなく、大学教職員の意識や大学生、大学院生の学び、それどころか『大学』という存在を位置づける日本社会全体の劣化と深く結びついている。」長期的な視野で考え、長期的には必ず役立つとされる文系教育を受けた人物が、大学改革としてなされてきた施策が生む結果を初期段階で予想して、改革を批判しなかったのはなぜなのか。

荒井一博『文化の経済学』文春新書、二〇〇〇年a
荒井一博『脱・虚構の教育改革』日本評論社、二〇〇四年。
石弘光「改革、自らの責任で」『日本経済新聞』二〇一五年六月二十九日。
猪木武徳「実学・虚学・権威主義」『中央公論』二〇一六年二月号。

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