経済学部は必要なのか(3) 文科大臣通知と教育の便益


プロローグ 文系学部廃止論争

文科大臣通知と教育の便益
 人文社会系学部は役に立たないので廃止すべきだ。このような強い勧告が文科省から発せられた、と多くの人たちが感じるようになった。当然のことながら、文系教員などは強い反論を提起している。この論争で今のところ問題となっているのは国立大学の人社系学部であるが、そのありようは将来の日本の大学教育や国力に大きく影響を与えるだろう。
 論争を見てまず感じるのは、「役に立たない」とか「役に立つ」という表現の意味が不明なことである。「役に立つ」とは教育を受ける個人に役立つことなのか、それとも社会全体に役立つことなのか。論争と関係するいくつかの文献を後で引用するが、いずれもこの点を明確にしていない。また、「役に立つ」のは金銭的な利益を生むことなのか、それとも精神的な利益を含むのか。この点も曖昧だ。さらに、「役に立つ」とされるとき、その利益の実現に一学年当たり何万人もの学生を教育するのが適切なのか、それとも数千人程度ですむのかも明らかにされていない。数千人程度ですむならば、ほとんどの国立大学で人社系学部を廃止したほうがよいことになる。
本評論は『教育の経済学』(荒井、一九九五)にならって、こうした区別を必要に応じて明確にしながら論を展開したい。教育の経済学は、教育を受ける個人に発生する利益を「私的便益」、その個人を含む社会全体に発生する利益を「社会的便益」と呼ぶ。それぞれには「金銭的便益」と「非金銭的便益(精神的便益)」がありうる。
非金銭的便益は経済学や今回のような論争で言及されることが少ないので、説明を付加しておきたい。社会が平穏で安定していること、他者一般と気持ちよく接することができること、社会のリーダーが頼もしいこと、日本人が世界で尊敬されることなどは、われわれの精神状態を良好にする。そのため、教育がそれらに貢献すれば、非金銭的便益をもつといえるのだ。
これら四種類の便益は、卒業後すぐに発生するかもしれないし、時間がかなり経過してから発生するかもしれない。厳密いうと、教育には個人が在学中に享受する便益もあり、それは教育における「現在消費の便益」と呼ばれる(卒業後に発生する便益は「投資的便益」ないしは「収益」)。たとえばフランス語学習が在学中に生み出す楽しさは、現在消費の便益にほかならない。
 以上の点を念頭において、論争の発端となった平成二七年六月八日付の文部科学大臣通知をまず検討してみよう。問題となるのは次の箇所だ。「特に教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、一八歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする。」
 ここで重要なのは「要請の高い」という表現にほかならない。右に従えば、この表現は「便益の大きい」を意味しているはずだ(教育の経済学に即してもっと厳密にいえば、「収益率の高い」を意味するはずである)。するとこの便益は私的便益と社会的便益のいずれなのか、そして非金銭的便益も含まれるのかという疑問が生じよう。「社会的要請の高い」と表現されているからといって、必ずしも社会的便益を意味しているようにも理解できない。「政財界からの要望の強い」や、せいぜい「多くの人たちにとって私的便益が大きい」を意味している可能性もあるからだ。「社会的要請の高い分野」の条件が示されていないので、真の意味は不明といえよう。
この文章では、「積極的に取り組むよう努めること」が「取り組むこと」と異なるのかも不明である。また人社系学部・大学院も、教員養成系学部・大学院と同様に「組織の廃止」が求められているのか明確ではない。高校の元国語教師で同年十月に就任した新文科大臣は、この通知の表現について、「あの文章では三二点ぐらいしかあげられない」と述べたという。文科省は「誤解を与える表現だった」と反発の鎮静化を図ったものの、通知の見直しや撤回をしていない。

参考文献
荒井一博『教育の経済学―大学進学行動の分析』有斐閣、一九九五年。

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荒井一博のホームページ
http://araikazuhiro.world.coocan.jp/




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