経済学部は必要なのか(75) 二重学位と二重専攻の社会的便益


二重学位と二重専攻の社会的便益
右で指摘した二重学位や二重専攻の私的便益に、読者は目を見張ったかもしれない。しかし本章では、第六の便益としての社会的便益を最も重視したい。本評論がここまでに特に問題としてきたのは、私利追求思考の蔓延による日本社会の劣化である。そのためここでは、経済学専攻者の二重学位や二重専攻が、この劣化を阻止するのに役立つという社会的便益を指摘したい。
日本の有力大学は、社会(や組織)を善導できる能力と精神のある指導者を生み出す教育をする必要がある。それがきわめて大きな社会的便益を生み出すからだ。優れた指導者には、自己犠牲を覚悟で社会を格段によくしようとする気概がなければならない。だが、それを育成するのに、現状の経済学だけの教育はまったく不適である。経済学にはそのための思想や原理が皆無で、むしろそれを萎えさせる私利追求の正当化という「毒」が含まれているからだ。
そもそも経済学には指導者が登場しない。そのため指導者がどうあるべきかという問題などは、考察の対象外になっている。経済学には会議や話し合いさえ登場しないのだ。経済学は組織論を欠いていると先に指摘したが、その性格がこのような結果として現れる。主流派経済学には企業の社会的使命や社会貢献などの概念もまったくない。
ついでに指摘すれば、意外にも経済学には昇進という概念もなく、どのような条件が満たされたときに、どのような社員を昇進させるか、という議論は経済学にない。ほとんどの日本の組織における指導者の選定は昇進の特殊例で、多くの指導者は下の地位から選抜されるはずだ。昇進は経済的に重要な「資源配分」であり、現実の組織で昇進が大きな関心事や策略の対象になるにもかかわらず、経済学に存在するのは個別の職能の市場で、必要な人材はそこで調達するという考え方だけである(労使関係論は昇進問題を扱うが、右のような問題意識をあまりもたない)。
経済学は深刻な欠陥を有することを、本評論は一貫して論じてきた。しかし、今日の経済学は人類が現時点までに辿り着いた経済に対する見方なので、経済を考える際に無視できない。それを知らなければ経済の見方は稚拙になろう。それを考慮して思考を発展させることが必要だ。
そのためそれを学ぶ者は、少なくとももう一つの分野も熱心に学んで、自分の頭のなかで経済学的思考を相対化したり、前述の「二次元的思考」を試みたりして、経済社会に関する優れた世界観を生み出し、その厚生を高める巧妙な方針・政策・戦略を考え出す必要がある。文化的素養の育成や精神的な鍛錬も不可欠だ。現今の教育制度の下では、二重学位がその目的達成に最も近く、かつ実現可能な教育法といえよう。

コメントをどうぞ

荒井一博のホームページ
http://araikazuhiro.world.coocan.jp/
 



コメント

このブログの人気の投稿

経済学部は必要なのか(39) 御用学者の公共心

経済学部は必要なのか(28) 勤勉で勉強好きな日本人という神話

Twitter:過去のツイートの整理 (2) 2018年(b)