経済学部は必要なのか(67) 縮小しても研究水準は維持できる


縮小しても研究水準は維持できる
 経済学部を縮小すればその教員も少なくなって、経済学研究に支障が出るのではないか、と心配になるかもしれない。しかし現存の経済学部には、何年間も論文をまったく書いていない教員が少なくないようである。彼らがいなくなっても、わが国の経済学研究に支障はない。
 経済学の国際学術誌に掲載される日本人の論文が少なくなる、と危惧する人がいるかもしれない。しかし、日本の経済学部が二十になっても、国際学術誌に掲載される日本人の論文数はほとんど変わらないと推察される。今日の世界の経済学に対する日本人の貢献はきわめて小さいのだ。日本人が切り開いた経済学の新しい分野や分析手法はほとんどない。
 日本の経済学者が少なくなっても、国際学術誌に掲載される日本人の経済学論文を多くする方法はある。日本の経済学の存在感を今より格段に高めることは、それほど困難でもないのだ。その方法は、一部の大学における経済学の位置を数学や応用数学と同等にし、数学や統計学に強い教員や学生を集めて、大学院重視の経済学教育をすることである。つまり、数学者のように数理能力のある人たちが経済学の研究をして論文を書けば、経済学の国際学術誌に日本人の論文が多数掲載されるようになるはずだ。
 わが国の数学の水準は世界でもトップレベルである。そのため、日本人経済学者の数理能力を世界のなかでも引けを取らない水準にもって行くことは可能だ。そうした能力のある研究者が、数学や数理統計学を多用する経済学の分野に特化して論文を執筆すれば、国際学術誌に掲載される日本人の経済学論文は格段に増えるはずである。現時点では、数理経済学・ゲーム論・ミクロ経済学・産業組織論などが、そのための有望な分野だ。
このような研究者は、日本全体の数学科の教員数と同じくらいでよいだろう。そのため、経済学部の縮小が大幅でない場合は、彼ら以外の多数の日本人経済学者が依然として大学で教育と研究を行うことが可能だ。要するに、経済学教員を二つのタイプに分け、一方のタイプの教員は数学や数理統計学を多用する研究に専心するようにして、国際学術誌に多数の論文が掲載されることを第一目標にさせるのである。他方のタイプの教員は、必ずしも高度に数学的な論文を書く必要がなく、国際学術誌に論文が掲載される義務もあまり強くない。
 ただ、このような方法で国際的な学術論文を量産することは可能だが、それは邪道でもあると私は感じる(国際学術誌の論文数や引用数で経済学の研究成果を計測するのが正しいと考える人たちにとっては邪道といえない)。普通の意味の成果だけは上がるだろうが、今日の経済学の内容から推察して、そうした研究が人類や日本人の真の幸福に寄与するとは思えないからだ。
米国にも数学的分野にほぼ特化して研究の生産性を上げ、ランキングを高めている経済学部が一部にある。そのような研究や教育は、日本の一部の高校が一流大学の合格者を多くするために、受験科目重視の教育をするのと似ていよう。いずれにおいても、生み出される世界観や学生の抱く世界観は、偏狭であったり歪んだものになったりするに違いない。

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