経済学部は必要なのか(65) 米英の英語戦略に対する反撃


米英の英語戦略に対する反撃
 ただし、英語の講義も部分的にあってもよい、と私は思う。トップレベル経済学部の経済理論・数学・統計学・計量経済学は、教員の英語力が高ければ、数学を多用する中級レベルから英語の講義にしてもかまわない。使われる英語が平易なためだ。また、それらの分野は英語の教科書で学んだほうが理解しやすいだろう。大学院では英語による講義を多くしてもよいが、全科目を英語で行う必要はない。特に日本に関する科目は、日本語で行うことが留学生にとっても好ましいだろう。ついでにいえば、外国語教育を主体とする大学(学部)では、専門言語以外の全科目の講義を英語で行うのが望ましい。
 「学生全員を一年間海外留学させる」と宣言して、グローバル人材の育成に取り組んでいることを誇示する大学も今では現れている。留学がグローバル人材育成の特効薬のごとく語られているのだ。自校だけではグローバル人材の育成ができないことの免罪符として使われているようにも感じられる。外国語学部であればこれは自然な教育法であるが、経済学部などの場合、一般に費用に見合った便益があろうか。学生や大学の負担する費用は少なくない。
それだけでなく、海外の大学キャンパスに日本人学生が固まっている風景は異様だ。英米の大学に最近一年ほど留学した学部生二、三人から経験談を聞いたことがある。それによると、現地の学生と友達にはなれず、英語もそれほど上達しなかったようだ。彼らは日本の大学で良好な成績を収めた学生である。日本人の留学によって利益を得たのは、英米の大学とその周辺の経済と航空会社であろう(交換留学制度があれば大学の金銭的利益にはならないかもしれない)。一年間の留学程度でグローバル人材などとても育つはずがない。
わが国の外務官僚の達成する外交成果を見ただけでも、海外留学の効果がどれほどのものか想像がつこう。彼らは、採用されてから一~二年の国内実務研修を受けた後、二~三年間海外に留学する。そのときは仕事をいっさいせずに勉強に専念するらしい(遊び時間も多いのではないかと私は推察する)。外交官一人の養成に一・五~三千万円投入されるという(佐藤、二〇一一)。国費でもう一度大学を出るようなものだ。
エリートといえそうな人たちにこれほど潤沢に資金と時間を投入しているにもかかわらず、日本は外交において敗北を重ねている。慰安婦問題などはいっこうに解決されない。先の戦争の開始時点から今日まで、外務省の行ったことで、日本国民が拍手喝采をしたくなるようなことがあっただろうか。外務省には、日本の考え方を世界に説明したり世界平和のために活躍したりできるグローバル人材がいないようだ。そもそも、原稿を見ずに英語で一時間の講演ができる日本人大使はいるのだろうか。
 日本人の英語力を上げる妙薬はないが、英米の英語戦略に反撃する方法はある。人工知能などを使った自動翻訳機の開発だ(荒井、二〇〇七)。今日では自動車の自動運転技術の開発に多くの資源が投入されている。それ以上に自動翻訳機の開発に資源を投入してもらいたいものだ。
自動運転車がなくても特に不便は感じないが、日本人の英語下手によって、政府の外交力・海外発信力、企業の宣伝力・交渉力、市民の交流力がきわめて低い水準にとどまっている。また、英語教育のために浪費される資源は膨大だ。
高性能の自動翻訳機は自動運転車よりもわが国の厚生を格段に高めるだろう。それが登場するまでは、二割程度の大学生に資源を集中投入して、まずまずのレベルまで彼らの英語力を引き上げるのが上策である。英米人と自由に討論できる人材は、日本人千人に一人(語学の天才や帰国子女など)もいれば十分だろう。質の高い自動翻訳機が出現すれば、世界の多数の言語や文化も生き残ることができるため、その恩恵は計り知れない。

荒井一博『学歴社会の法則 - 教育を経済学から見直す』光文社新書、二〇〇七年。
佐藤優『外務省に告ぐ』新潮社、二〇一一年。

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荒井一博のホームページ
http://araikazuhiro.world.coocan.jp/
 




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