経済学部は必要なのか(27) 大学院生は勉強家なのか


大学院生は勉強家なのか
 何年か前、私の大学院ゼミに他大学出身の女子学生が入ってきた。私の専門分野のトピックで修士論文を書きたいという。ただ、そのための基礎知識がなかったので、夏休み明けに開講する私の学部講義を履修するよう助言した。その講義の試験は客観的な評価が可能なものだ。にもかかわらず、その学生の成績はF(不可)であった。つまり、平均的学部学生よりずっと出来が悪かったのだ。
私は成績評価に私情を挟まない(私情は不正でもある)ので、試験結果に基づいて成績をつけたにすぎない。この成績のためと推察するが、彼女は二年次になると連絡もなしに他の教員のゼミに移っていった。その科目にはちゃんと教科書があり、試験では教科書持ち込み可であったので、普通に勉強すれば間違いなく良好な成績を収められたはずである。だから彼女は、自分が教科書を理解していないことを自覚していたはずだ。普段のゼミの態度からも、彼女が熱心に勉強しているようには見えなかった。
他の大学院生の例を追加しておこう。経済学の大学院生は理論または実証の専門家になるのが普通だ。ある大学院生に、彼の能力を考慮して実証を中心に勉強するようにアドバイスして、計量経済学の科目を履修させた。修士論文を書く段階になって、「計量経済学の勉強をしたので、それを使ってみたいと思わないか?」と聞くと、「別に・・・。」という返事。勉学熱心でなかったので、別の機会に「将来のことが心配になれば、勉強しようと考えるのではないか?」と聞いても、無表情であった。向学心に欠けるこのような大学院生を、教師は相手にする必要があろうか。
右は少数の例であるが、今日では学部学生より低学力の大学院生が多い。少なからざる大学でも同様のようだ。その一因は、大学院重点化によって、以前の何倍もの学生が大学院に進学するようになったことにある。私が大学院に進学したころは競争率が五倍ほどあったが、今日では二倍を切っているはずだ。大学院は何校でも受験可能なので、実質的に全入状態といえよう。
今日の大学院は広き門となり、基礎学力や向学心に欠ける学生が大量に入学している。重点化した大学院は、定員を満たすために、かつては縁もなかった下位の大学から学生を受け入れているのだ。それどころか中堅の大学を詣でて、大学院受験者を送り出すよう懇請している。
上位大学出身の大学院生の学力も心細い。ある調査によると、一つの大学院講義に関する学生の勉強時間は週一時間未満の場合がきわめて多い。つまり普段はほとんど勉強していないのだ(試験やレポートのためには多少勉強するのであろう)。大学院講義は少人数であるが、受講生の発言が多いというわけでもない。授業中の発言も考慮して成績をつける、と教師が学期初めに伝えても、熱気を帯びた議論が行われるわけではない。
大学院が広き門になったこと、少子化により教員需要が伸びていないこと、研究者以外でも大学教師に採用可能になったことなどのために、大学院を修了しても容易には適職にありつけない。にもかかわらず、のんびりした大学院生が多い。研究の進捗状況が芳しくないのに、博士後期課程に進学してから一年以上にわたり一度も指導教員の研究室に質問や相談に来なかった学生がいる。奇妙にプライドが高くて、質問や相談ができないのかもしれない。「付き合っている異性がいて近いうちに結婚する予定だ」といって、言外に「早く就職先を探してくれ」とほのめかした大学院生もいた。活字論文や博士論文なしに就職など不可能なことさえ理解できないのだ。

コメントをどうぞ

荒井一博のホームページ
http://araikazuhiro.world.coocan.jp/
荒井一博のブログ
荒井一博のツイッター





コメント

このブログの人気の投稿

経済学部は必要なのか(39) 御用学者の公共心

経済学部は必要なのか(28) 勤勉で勉強好きな日本人という神話

Twitter:過去のツイートの整理 (2) 2018年(b)