経済学部は必要なのか(23) 批判精神は育っているのか


批判精神は育っているのか
輪読するゼミで質問やコメントをするには、担当者でなくてもテキストを読んできて、ある程度理解していなければならない。そして、どの箇所が理解できないか、あるいはどの点に疑問を感じるのかを明確にしておく必要があろう。こうした準備なしに、報告を聞いたりレジュメを見たりしただけでは、十分に理解できず質問もしにくいはずだ。活発な議論が少ないのは、報告者以外のゼミ参加者でテキストを読んでくる学生が少ないのが最も重要な理由である。
ゼミと聞けば崇高な教育方法のように感じる人もいるようで、実際に教育改革の一手段として、多くの大学がゼミの対象を一、二年生にも広げている。しかし、ほとんどの学生はゼミでも真剣に勉強しない。知識を深め討議力を鍛える機会は与えられているが、積極的に活用する学生はあまりいないのだ。テキストを予習せずにゼミに出席し、九十分間無言で過ごしても、特に成績が悪くなるわけではない。学年末が近づいたころ、閉じたテキストを見ながら、「自分の報告したページの部分だけが黒っぽく縞になっている」と恥ずかしげもなくいった学生もいる。
 卒論ゼミでは報告者以外が予習しにくいけれど、むしろそのために初歩的な質問でもしやすいといえよう。たしかに、多少の質問は出されるが、ゼミが盛り上がるほどの質問になるわけではない。自分が発表するとき以外は無言で一年間を終える学生も少なくないのだ。
 ゼミの指導教員によっては、報告者だけでなく質問者もあらかじめ決めておいて、質問者は必ず質問やコメントをするようにさせている。私もそのようなことを一時試したが、それは正常な学問の姿勢ではないと感じてやめてしまった。強制されなければ質問しないというのは、学問する者にとって恥ずかしいことではなかろうか。強制されずとも、自然と疑問が湧くような勉学習慣を身につけるべきである。
 前の二つの章の議論で重要な働きをしたのが、「批判精神」や「批判的思考力」という概念である。文系の学問はそうした精神や能力を養成すると主張された。しかし、右でみたように現実ではほとんど養成されていない。それらは文献を読み議論をすることによって身につくはずである。だが、学生にはそうする強い意欲がない。教師が批判や質問をどんなに奨励しても、学生はそれに全然応えないのだ。
 批判するためには、教科書や講義などの批判対象を十分に調べたり考えたりしなければならない。そうした勉学態度が、卒業後の仕事や社会活動における批判的言動につながるはずだ。しかし、今日の学生は向学心が不十分でそうすることがない。学問を現実社会に照らし合わせて批判したり、その論理を懐疑したりしようとする意欲にも欠ける。文系教育が批判精神や批判的思考力を養成するという主張は、きわめていかがわしい。

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