経済学部は必要なのか(24) 不勉強を示す受講態度


不勉強を示す受講態度
 学生の受講態度からも彼らの不勉強が推察可能だ。ほとんどの講義室で学生は後方の席に座っている。それだけでなく、下位の大学では学生の私語が多くて、正常な講義が困難だ。私語は最後部辺りに座っている学生に多い。私語をする学生に向かって講義する教師は惨めなものだ。教師が私語を注意すると、教室は一時的に静かになるが、しばらくすると元に戻ってしまう。
教室内が私語でワイワイガヤガヤしていても、一向に注意せずに講義を続ける教師がいる、と学生から聞いたことがある。私語を注意すると不愉快になるためであろう。その教師は、黒板やプロジェクタのスクリーンに向かって、独り言をいう気持ちで講義しているはずだ。大変な苦痛であるに違いない。ちなみに彼の講義に対する学生の評価は学内トップクラスらしい。
講義には出席するけれど、机にうつ伏して眠っている(ような)学生がいる。また、講義中にストローでジュースや牛乳を飲む学生が最近は現れているようだ。ひょっとしたら講義中に物を食べる学生もいるかもしれない。まるで相撲や野球を観戦するような気分で、講義に出席しているのだろう。
テレビを見るような気で講義に出席する学生が多いことは、私もかなり前から気づいていた。「教師は勝手に講義してください。私は好きなようにそれを見ています。」というのが彼らの受講態度だ。そこには講義に参加するという意識がない。教師と学生が一つの共有された空間のなかで相互作用を演じるという意気込みがないのだ。そのために、質問を促しても質問しないし、教師が学生を指名して質問でもしようものなら、当惑した表情や不機嫌な表情を浮かべる。できるだけ指名を避けることも、後方の席に座る理由といえよう。
佐藤・田中・尾崎(一九九四)には、「なぜ、みんなで自分の意見を出して話し合っていくような授業をしないのだろう」という一八歳の高校生の意見が紹介されているが、実態は右の通りだ。「教員と学生がともにつくり上げる学びの<場>としての大学」(室井、二〇一五b)は理想であっても、現実ではない。批判精神や討議や学生と教師の学び合いなどは美しい言葉であるが、学生の向学心や努力なしには成立しない。今日の学生にはそれらが決定的に欠けている。
最近はコピペのレポートや卒論が発生している。あちこちのサイト記事を複写し貼り合わせたものだ。本人が執筆した部分は、「つなぎ」などのマイナーな部分にすぎない。これは究極の不勉強であり、教師に対する侮蔑といえる。このようなレポートは一日、卒論なら一週間で作成可能であろう。
今はコピペを発見するソフトが出ているようであるが、それなしでも見破ることは可能だ。コピペの文章には異なる文体が入り混じっているからである。「ですます調」と「である調」の混在さえあるのだ。普段の勉学態度も参考にできよう。怪しいと思って、文章の一部(普通は頻出しない表現)を切り取って検索エンジンにかけると、面白いようにヒットする。

佐藤喜久雄・田中美也子・尾崎俊明『中学・高校教師のための教室ディベート入門』創拓社、一九九四年。
室井尚『文系学部解体』角川新書、二〇一五年b

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