平成29年11月15日 学生の授業評価

 最近は、各学期の最終講義の際に、学生による授業評価を実施する大学が多い。学生は選択肢のある質問に答えたり、自由筆記の蘭に記入したりして評価を行う。全教員に関する評価結果を冊子などにまとめて、教員や学生に公表している大学もある。学外者も閲覧可能かもしれない。授業評価の目的は「講義の改善」と「教員の勤務評定」であろう。後者はほとんどの大学でまだ公式に表明されていないと思われるが、近い将来に実現する可能性が高い。
授業評価を経験してみると、奇妙なことをいくつか発見する。「(マイクで)話す声が小さい」「講義のスピードが速すぎる(講義内容が多すぎる)」「パワーポイントのスライドの切り替えが速すぎる」というような意見が多い。そうした意見があるならば、なぜ学期の初めころに教師に口頭で伝えないのだろうか。講義最終日に意見をいっても、まったく評価者の利益にならない。また、わざわざアンケートを行わないと、この程度の意見さえ表明できないのも情けない。
授業評価を行うと学生の学力は上がる、と多くの人が信じているかもしれない。しかし、(今までよほど低質な講義が行われていた場合を除き)学力は概して低下する、と私は考える(数十年前は低質な講義も少なくなかったが)。学生を厳しく鍛える講義が低い評価を受けて消滅するからだ。学生の評価を気にして教師が平易なことばかり教えたり、講義内容を削減したりすれば、学生は知識量が減るし勉強もしなくなる。学生に迎合した落語のような講義では、思想や文化の伝達も不可能だろう。また、頻繁に行われる授業評価は、学生に自分が主人で教師が従者であるような意識を醸成し、学力低下を促進する。学問は教えを乞うてするものだ。
授業評価には深刻な問題がいくつかある。学生の向学心の程度によって評価基準が異なることを、現行の方法は考慮していない。いい講義はどんな学生からも高く評価される、という思い込みから授業評価が実施されている。実際には向学心に欠ける学生が圧倒的に多く、こうした学生は厳しい講義を高く評価しない。評価のポイントを高めるために、そうした学生に合わせて教師が授業を行うことは好ましいのだろうか。不勉強の学生の尻を叩いて勉強させる授業のほうが好ましいと私には思われる。
また一般に、学生は学問や現実世界に関して教師より情報不足なので、学生を神様のごとくみなす消費者主権原則を授業評価に適用するのは誤りだ。同原則が成立するためには、財(ここでは教育サービス)の購入者が財の質に関する完全情報を必要とするけれども、教育ではそれが成立しない。そもそも学生が完全情報を有しないから教育が行われるのではないか。
さらに、授業評価では学生の平均評価が問題とされるが、二十人と二百人のクラスの平均評価を比較しても意味がない。受講者に厳しい条件を課し、向学心の強い学生のみが受講するようにして受講者数を減らせば、平均評価は上げられる。これほど初歩的なことさえ問題とされていないのだ。授業評価に対応して学生の平均評価を最大化する講義を行うことは、教育の本来の目的といえない。教育学者も含めて、同様なことを公言する大学教師がいないのは不思議である。
今日の大学の授業評価は、その意義や効果が十分に考慮されることなく、毎学期全科目について機械的に実施されているようだ。文科省が授業評価の存否を大学評価に使っているからであろう。授業評価に深刻な非合理性のあることは明らかだ。大学人の批判精神が疑われる。


*荒井一博『脱・虚構の教育改革』日本評論社、二〇〇四年。

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