平成29年11月7日 図書館と出版不況 

図書館は社会に有益な素晴らしい施設だ、と多くの人が考えているであろう。優れた社会を実現するのに資する崇高な知識を、万人が無料で利用できる神聖な施設だと。図書館の建物は、そうした考えを反映して、静謐な雰囲気を醸し出すように多少厳かな造りになっている。図書館員という職業は、地味であっても堅実さを示唆しよう。
もう40年も前に留学した米国の大学には、壮大な図書館があった。当時の日本の大学の図書館と比べると、数階建ての本館はとても大きく、各階に洗面所が設置してあって驚いたものだ。蔵書数では全米の大学図書館のうちで5本の指のなかに入ると聞いた。現在では、日本の大学図書館も増築を繰り返して、大分大きくなっている。
日本の市民図書館が今日充実していることも注目に値しよう。市民はほとんどの一般向け書籍と雑誌を無料で閲覧できる。人気のある書籍は一つの図書館が数冊単位で購入するようだ。それでも何週間かの順番待ちらしい。朝から夕刻まで図書館で過ごす退職者も少なくないという。
確かに利用者にとって図書館は大いに有益である。数千円の書籍でも無料で閲覧できてしまう。だが、この利点は一般利用者の視点からのものにすぎない。図書館が機能するためには、図書館の建物や図書館員だけでなく、原稿を執筆する著者やそれを書籍にする出版社の貢献も不可欠だ。にもかかわらず、利用者が無料で図書館の書籍を閲覧すると、市場で流通する書籍が少なくなり、著者・出版社・書店などの得る報酬が不当に低くなる。低報酬になれば、書籍の出版に対するインセンティブが弱まり、書籍の供給が少なくなってしまう(特に大衆受けのしない良書はそういえよう)。最終的には潜在的書籍利用者の利益も小さくなる。
経済学的に表現すると、本来私的財として供給されているものを、あえて公共財のように無料で利用可能にしているのが図書館なのだ。私的財とは、スーパーマーケットで購入する特定の秋刀魚のように、ある個人が消費すると、他の個人はそれを消費できない財である(消費者Aの購入した秋刀魚は消費者Bが消費できない)。それに対して公共財では、利用料金を支払わない消費者(フリーライダー)を排除することが困難なので、同一のものを多数の消費者によって無料で消費できる制度が制定されるのだ。その代わり、公共財の供給量は政府によって決められ、税金が供給の財源となる場合が多い。一般道路・国防・警察・伝染病予防などがその例である。
図書館は本来的に私的財である書籍を無料で貸し出すため、利用者は合法的にフリーライダーになることができるのだ。経済学的に考えれば、これは明らかに不合理である。料金不払いの利用者を排除できるのに、わざわざ排除せず料金不要としているのだ。書籍は数百回にわたって回し読みされても消耗しないという性質がここで悪用されている。そのために、図書館が利用される分だけ著者・出版社・書店などの得る報酬が少なくなるのだ。
今日の出版不況の重大原因の一つが、この図書館制度にあるといえよう。図書館は崇高な理念のもとに運営されているように見えるが、実際は窃盗をしているのだ。神聖な顔をした盗人だといえる。著者・出版社・書店などが当然得るべき報酬を掠める盗人だ。実質的に、盗んだ金額は図書館利用者に分配していることになる(利用無料の背景)。これが図書館の実相にほかならない。
かつては書籍が高価で、貧乏学生は容易に購入できなかったであろう。彼がどれほど高い志と向学心を抱いていたとしても。しかし、今日は事情が大いに異なる。少なからざる大学生が、スマホのために毎月1万円以上出費しているのが今の時代だ。すべての図書館が貸し出す書籍について利用料を請求して、そのサービスに貢献しているすべての主体に適切に分配すべきである。そうすることが、出版文化の繁栄につながるのだ。1冊の貸し出しに300円ほど請求してもよいだろう。1ヵ月に10冊借出しても3千円の出費にしかならない。スマホ利用より安い。しかも1ヵ月に10冊読む人など、ごくまれであろう。
 下記のHPも参照されたい。
https://www.bookscan.co.jp/interviewarticle/296/all#article_bottom

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