経済学部は必要なのか(52) 経済学の世界観はなぜ歪んでいるのか


経済学の世界観はなぜ歪んでいるのか
 新古典派経済学が歪んだ世界観を作り出すのはなぜだろうか。荒井(二〇〇二、二〇〇九)などで論じたように理由は多々あるが、ここでは三つの理論的理由に絞って要点を述べることにする。それらは経済学部の教育でもまず触れられない(宗教は自らの欠陥を指摘しないものだ)。
 第一の理論的理由は、新古典派経済学が「取引費用」の存在を無視していることである。取引費用とは、取引する財の価格以外にかかる費用にほかならない。スーパーで買い物をするには、ガソリンや時間の費用がかかろう。職探しをするときは、情報収集費用や交通費がかかる。企業が労働者を採用する際には、募集・試験・オリエンテーションの費用がかかるはずだ。企業が大型プラントを発注するとなると、詳細な契約書を作成する多額の費用がかかるに違いない。新古典派経済学はこうしたすべての取引費用をゼロと仮定して構築された経済学なのだ。
 この仮定のために、新古典派経済学では、すべての市場取引が「完備契約」に基づいて行われることになる。完備契約とは、将来起こりうるすべての場合に関する対処法が明記された契約にほかならない。通常、将来起こりうる事象は自然・社会現象に関して無数にありうる。雇用契約を例にあげれば、風水害が起きたり、協同作業者の仕事が遅れたり、上司が不適切な指示をしたりすることがあろう。これらだけでも多様な種類や程度があるので、ほとんど無数の事象になる。完備契約では、それらのすべての事象に対して、どのように対処するかが詳細に決められているのだ。そうした契約をするためには天文学的な費用がかかるが、新古典派経済学では仮定により取引費用がゼロなので、無費用で完備契約が結べるのである。
 新古典派経済学ではすべての取引が完備契約で行われるので、取引後に発生したトラブルによって悩むということがない。何が生起しても「想定内」であり、対処法は合意済みなのである。しかし、現実経済では完備契約を締結することなど不可能だ。労働者が会社で仕事をする場合、仕事の仕方に関して詳細な契約などできようか。何月何日の何時何分に、どのような仕事をどのように実行するか、また違反をしたら(違反の仕方も多様)どう対処するかなどを、詳細に契約できるはずがない。そんな契約をしていたら仕事をする時間がなくなってしまう。
自由主義を正当化する厚生経済学の第一命題は、取引費用ゼロの非現実的な世界で成立するにすぎない。新古典派経済学は、現実と大きく異なる世界で成立する命題を使って、現実世界の人間に自由に行動するとよいことが起こると教えているのである。亜熱帯では冬にTシャツ一枚で快適な暮らしができるから、寒帯でも同様にせよといっているようなものだ。社会科学の命題を学ぶときは、それが成立する条件を十分に検討しなければならない。
現実は完備契約の世界と違うので、個人が順守すべき多くの倫理が「歴史」を通して「文化」的に形成されている。特に労働サービスの取引では、取引費用が天文学的に高いために、詳細な契約が結ばれない。そこでは文化ないしは慣習の重要性が大きくなる。さらに、倫理だけでは十分に解決できない問題も生じるので、個人間の「対話」も必要になろう。もちろん、それでも解決困難な問題は多数あり、現実社会では多様な方法で解決の努力をしなければならない。「人間は他者を利用して自由に生きればよい」といえないのである。
伝統的に日本は、契約が有する右のごとき欠陥を十分に認識してきた社会にほかならない。それに比して契約社会とも呼ばれる西洋は、契約を重視し、しばしば悪用してきた社会である。日本学術会議幹事会の声明と関連づければ、日本と西洋を相対化する際の座標軸一つが、契約に対する見方にあるといえよう。歴史や文化や倫理が尊重される日本型社会は、契約万能社会よりも融通が利き、概して効率的で暮らしやすいのではなかろうか。

荒井一博『教育の経済学・入門―公共心の教育はなぜ必要か』勁草書房、二〇〇二年。
荒井一博『自由だけではなぜいけないのか - 経済学を考え直す』講談社、二〇〇九年。

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