経済学部は必要なのか(53)  破壊された日本の組織と労働市場


破壊された日本の組織と労働市場
取引費用の無視は一国の制度も誤らせる。一九九〇年代以降、新自由主義が不況下の日本社会を支配するようになって、多くの学者・経営者が流動的な労働市場を推奨・推進し、国の制度を変えていった。高い雇用保障や終身雇用制は、労働者を特定企業に縛り付け、(特に企業の)自由を制限する非効率な制度だ、というのが彼らの行った主張だ。
こうした論理を使う経済学者は、取引費用の存在しない新古典派経済学を頭に描いて、現実経済のための制度を推奨したにすぎない。亜熱帯の世界を頭に描いて、寒帯に住む人間にアドバイスをするのに似ている。その結果、世界の人たちが羨望の目で見ていた日本の効率的な組織は破壊され、すさんだ職場が現れた(河合・高橋・永田・渡部、二〇〇八)。労働市場の流動化は社会全体の雰囲気も変え、九〇年代に日本社会の劣化が加速度的に進んだ。
これらの経済学者自身は大学で雇用の保障された職に就きながら、他者に流動的な労働市場を渡り歩くように勧めていたのである。実際に失職して職探しをすることは、どんなに辛いことか。新古典派経済学のような競争的労働市場が現実に存在して、直ちに職が見つかる、というわけではない。新自由主義の影響もあって、最近の大学では若い研究者に任期制を適用する場合が増えているが、彼らは雇用保障を喉から手が出るほど望んでいるはずである。雇用保障がなければ生活が安定しないし、解雇の可能性と新しい仕事先のことを常に考えていなければならない。そのため今日では、研究者を志望する優秀な学生が少なくなっているといわれる。
雇用の流動化を推奨することは、結婚の流動化を推奨するのと似ている。よりよい相手を求めて再婚を繰り返したり、経済的に苦しくなったら離婚したりするのがよいとされるようなものだ。しかし結婚が流動化したとき、だれが責任をもって次世代を育てるのか。配偶者が互いに新しい結婚相手を探すのに熱中していて、精神的に安定した結婚生活など送れるはずがない。結婚は原則として一生に一回だけするのが正常だろう。結婚を繰り返すと、一般に本人が多大な費用を負担するだけでなく、配偶者や子供に甚大な損害を与えることになる。経済学用語を使えば、繰り返される再婚にともなう取引費用は計り知れない。できるだけ結婚を崩壊させないような制度を人類がつくり上げてきたのはそのためだ。
新自由主義が今日ほど支配的になる前に、私はゲーム論を使って終身雇用制の利点を強調したことがある(荒井、一九九七)。終身雇用制は組織内の人間関係が長期間にわたって維持されるという期待を生み、組織成員間の協力を増進して、組織効率を高めるという考え方だ。達成される協力の度合いは、協力的な文化を有する社会のほうが大きくなる。協力志向の文化を有する日本は、終身雇用制が生産活動に有利であると私は主張した。短期的な人間関係では協力が達成されにくいのである。
日本の協力志向文化が優れた成果を挙げる出来事が、二〇一六年に数億人の見守る前で生起した。リオデジャネイロ・オリンピックにおける男子四〇〇メートルリレーの決勝のときだ。一〇〇メートル九秒台の選手が多いなかで、日本チームはそうした選手が一人もいなかったにもかかわらず、銀メダルを獲得した。その要因はバトン・パスの工夫、数ヵ月間に及ぶチーム練習、そしてまとめ役を中心とするチーム内の和という協力的な活動にある。個々人の能力は多少劣っていても、チームとしては最高レベルの業績が上げられることを示したといえよう。そのほかにも、男子体操・男子卓球・女子卓球・男子競泳八〇〇メートルリレーにおいて、日本人が集団プレー向きであることが示された。
二〇一八年の冬季オリンピックでは、スピードスケートの女子団体パシュートにおいて日本がオランダを破って金メダルを獲得した。これも日本人がチームワークにおいて傑出した力を発揮することの証拠である。
終身雇用制と文化に関する私の主張は一部の人たちから強い支持を得たものの、その後の日本経済は、全体として私が推奨したのとは逆の悪い方向に進んでしまった。実際、一九九七年の非正規雇用者比率は約二三%だったが、最新である二〇一七年データでは約三七%になっている。安定的な仕事に就いている者は急激に少なくなった。正規雇用者でも雇用不安が大きいだろう。大企業の社員でさえ不安を感じているはずだ。比較的安定した職業は公務員と医師くらいだろうか。そのため、学生の間で地方公務員の人気が高まっている。過去四半世紀にわたって日本社会を覆っている陰鬱な空気の主要な源はここにあろう。

荒井一博『終身雇用制と日本文化-ゲーム論的アプローチ』中公新書、一九九七年。
河合太介高橋克徳永田稔渡部 『不機嫌な職場~なぜ社員同士で協力できないのか』講談社現代新書、二〇〇八年。

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